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優生思想を論じてはいけない理由


#KENMAYA です。

先日とある著名人が命の重さについて持論を展開し、大炎上するという事件がありました。その後、本人は猛反省した上で謝罪を行っていますが、本質的な優生思想についての議論は未だに行われており、様々な意見が出ております。発言したご本人も反省なさっているそうなので、本稿では炎上記事などの引用は行いません。以前、わたしも優生思想について見解を述べた記事を出しておりますので、ご覧になってない方は是非読んで頂けると幸いです。

🔽約一年前の記事になりますので、拙い文章ですがお許しを。🔽


まず、我が国では憲法で言論、表現の自由が保障されているにも関わらず、なぜ「優生思想」は論ずることすらタブーなのか。それは過去記事でも取り上げていますが、ナチス政権によるユダヤ人虐殺、ホロコーストの契機になったからに他なりません。現代においても「民族主義」や「ナショナリズム」が危険視されているのは、一歩間違えれば「優生思想」に繋がりかねない思想だからです。

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人間の生命はそのものに与えられた権利であり、それを奪うものは例え「正義」や「法」、あるいは「国家」であっても人殺しに違いはありません。しかし、これはあくまでも理想論に過ぎません。他人の生命権や財産権を奪った人間には人間が作った「法」に基づく罰が与えられ、我が国においてその極刑は「死刑」です。人間が人間を裁くのが司法であり、あくまで人間倫理、社会的幸福に基づいた「法」というルールに従って粛々と罪を犯した人間に対して罰が設けられるシステムなのです。

ですから例え「個人的意見、感想」だったとしても「優生思想」や「命の選別」に言及することは、そのルールとシステムを無視した言論であり決して看過されてはならないものです。


少なからず人間は何かしらの罪を背負って生きています。完全無欠、完全無罪(?)の人間などこの世界にもいません。生きている以上、植物や動物の命を頂いているわけですし、労働し対価を得ることは、誰かの仕事を奪い、誰かの犠牲の元に成り立っているのです。

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【優れた者が生き残り、劣った者は淘汰される】という自然摂理に基づいた「適者生存」と「優生思想」は似て非なるものです。適者生存の考え方は資本主義社会において競争の中で生まれる必然的な流れであるのに対し、「優生思想」は特定の人間から見た価値観で特定の人間に対し、差別的あるいは相対的に特定の人間を貶める考え方であることが大きな違いです。つまり、分かりやすく言い換えれば「適者生存」は競争社会の中で生まれる自然発生的な優劣であるのに対し、「優生思想」はポジショントークでの価値観の押し付けという違いです。


今回大炎上したのは本質的には優生思想が問題だったのではなく、それなりに影響力もある、一般的に成功者の部類に入る収入も平均以上の人間に対する嫉妬心も少なからずあると思いますが、その成功者の驕りから来る【命の平等】に対するあってはならない差別意識の現れだったのではないか、と思います。

傲りは長ずべからず、欲は縦(ほしいまま)にすべからず、志は満たすべからず、楽しみは極むべからず。─────────────────『列記』


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