いつかのじぶんへ


私は要領が悪い。

兄は高いものを強請ってもなんでも買ってもらえた。MDコンポも、車の免許を取るためのお金も、お小遣いも要領よく手に入れていた。

私は何をやっても裏目に出てしまう。私が思っている事は1/3も伝わらず、大人を怒らせることに関して言えば天才だと思う。

褒められた記憶は殆どない。
諦められたか、怪訝な顔をされることばかりだった。

それは、大人になっても変わらなかった。

その日、私は夜勤明けで疲れ果てていた。

駅に向かう途中の坂道で、自転車に乗った男が目の前にいる老婦人のバックを、通りすがりに引ったくったのだ。

一見するとたまたま道で祖母に会った孫のように自然に近づいて来たから、一瞬でバックをひったくり自転車に乗って猛スピード自分のほうに向かってくる犯人に何もできなかった

勇気を出して出た声は「おい」だったか「待てよ」だったか覚えていない。それ程までにあっという間の出来事だった。

その話をすると大体が「向かい合った時に飛び蹴りすれば良かったんだ」「手を出せば相手が倒れたかもよ」と護身術まがいのアドバイスをしてくれるが、私は一般人だ。

ヤンキーでもなければ警察でもない、あの場面に遭遇した人にしか分からない。

咄嗟に判断できないのが人間だと思う。


自転車で通り過ぎた犯人を見送ってしまった私は夜勤明けの使えない頭をフル回転させてご婦人に駆け寄り、声をかけ、警察を呼んだ。

一般人の私ができることなんて…そんなものだ。

婦人はひったくりに遭った際に転倒し、頭を軽く打っていた、打ちどころが悪かったら死んでいたかもしれない。

警察は割と早く来たけれど、誰も救急車の手配をせず、現場検証をしていた。

転んで足を擦りむいた婦人は足を痛そうに摩っていた。

「あの、おばあさん…引ったくりにあった時に転倒して頭を打っていました、病院に連れて行ってあげたほうがいいですよ」

勇気を出して言えた事はこれだけだった。

20代前半の若造に言われたのだ、年配の警察官は舌打ちでもしそうな顔をして返事も曖昧だった。

そのまま私は警察へ事情聴取に連れて行かれ、犯人の話、犯行当時の様子など聞かれた。

人生で初めて取調室に入ったが、警察内の事務所の一角にあるようなパーテションだけの場所だった。

思ってたんと違う」となったのは覚えている。

そこで犯人の特徴だとかモンタージュみたいなものを見せられた。

でも通り過ぎる犯人の顔を一瞬しか見ていないのだ、覚えている訳がない。

その後、これも人生初なのだが、パトカーに乗せられ、犯行現場周辺を一緒に巡回した

警察官は「まだ近くに犯人がいるかもしれないから」と言っていた。

なるほど。

パトカーの中で色々聞かれ、最終的に何故か合コンやろうよと言われ、名刺まで貰った。

全然なるほど、じゃなかった。

帰って即捨てた。

頑張ってるお巡りさんには悪いけど、職務中にそういうのはよくないと思う。

ようやく帰宅した夜勤明けの身体はショート寸前で泥のように眠っていたが、夕方1本の電話で起こされた。

ご婦人の娘さんからだった。

ご婦人はちゃんと病院に連れて行ってもらい、検査もしてもらい、無事でした、ありがとう。

そう言ってくれた。

唯一の目撃者である私の記憶力が悪いせいで、犯人逮捕に貢献できなかったのに…ありがとうと言ってくれた。

とても嬉しくて、疲れも全部なくなって、何より、ご婦人が何事もなくて良かった…そう思ったのに。

電話を切って振り向くと、なんだかとてもイライラしているような、軽蔑するような視線で私を見つめる母と目があった。

母は電話について何も聞いてこなかったが、その視線が怖くて、私は勝手に喋り出していた。

事件の経緯と電話の内容。

言い終える前に母は私を叱り飛ばした。

「そんな事全然自慢にならない!当たり前のことをしていい気になるんじゃない!」

驚いた。

そして、自分を恥じた。

私はきっと知らないうちに良い気になっていたのだろう。

人を助けたと自分をヒーローのように思っていたのだろう、と。

母はそれが恥ずかしい事なのだと、怒ったのだと思った。

それから、この話は二度としなかった。

思い出すと自分が恥ずかしい存在になっ気持ちになるし、調子に乗った嫌なやつだと感じたからだ。

そして思い出しては惨めな気持ちになった。

私は要領が悪い、だからきっとこの話もちゃんと説明できていなかったのだろう。

誰かを助けても「当たり前」

頑張っても「当たり前」

何をやっても認めて貰えなかった私は要領の悪いまま、自分に対するハードルだけが高くなり、未だに完璧を求めてしまう。

当たり前じゃない頑張り方がわからない。


褒められると「いい気になるな」と母の声が聞こえる。

親の言葉は呪いと同じでなかなか解けない、厄介なものである。

今、私は自分を褒める練習をしている。


誰も褒めてくれないならせめて自分だけは味方でいようと思った。

いつか、あの日の私に言ってあげたい
手を差し伸べられた、あなたはすごい」と。


※この文章は以前違うアカウントで書いた文書をそのまま載せています。

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