わからないにも程がある
長年の連れ添った愛猫が2021年8月26日に永眠した。
とにかく失ったことが信じられなくて、泣いて過ごした。
自分の監督不行き届きでこの子は亡くなってしまったのだと、自責の念にかられ、泣き明かした。
普段は祈りもしないのに、初めて心の底から助けてくれと祈った。
それでも愛猫は静かに逝った。
けれど、日常は続く。
朝は来るし、仕事はちゃんと行った。
食事はほぼ食べられなかったし、夜は眠れなくなった。
どうしたら良かったのか悩み苦しみ悲しみ、後悔ばかりが押し寄せた。
その時、よせば良いのに夜中に誰かの声を聞きたくて母に電話をしてしまった。
案の定、心ない言葉にめったうちにされたのだが…
「新しく可愛い子を探しにいこうか!」
この言葉が決定打となった。
今それを言うか?喪に服している私に、まだ49日もあけていない私に。
壊れたおもちゃを買いなおそう、私にはそう聞こえた。
それくらいのノリで言われ、塵程度には残っていた母への信頼は全て消え失せた。
人の気持ちを汲み取れない、空気が読めないとは常々感じていたが、まさかここまで無神経な言葉を口するとは思わなかった。
母なりに気を遣っていたにしても、だ。
今そのタイミングではないことは火を見るより明らかだ。
いや、まずコイツに電話しようなんて思った自分も悪い。
傷つけられてきたのに、まだ心のどこかで親への期待を背負っていたのだ。
自分から地雷原に突っ走って行って…結果被弾した。ただそれだけの事だ。
自分の息子が失踪した時は泣いてキレたのに、私の唯一の家族が死んだことに対しては1ミリも悲しみを感じないのかと憤った。
同時にこんな人間には決してならないと肝に銘じた。
そして、一刻も早く距離をおこうと決心した。
自分がされて嫌なことは人にしてはいけない
きっと大半の大人は子どもの頃、耳にタコができるほど言われた言葉だろう。
「自分がされて嫌なことはしてはいけない」
これは裏を返せば、自分がされて嫌じゃないことはしてもいいとも受け取れる。
友人に教わった時、目から鱗が滝のようにこぼれ落ちた。
この人にとっては私が大切にしていた存在が亡くなったことは「仕方ない」ことで、「嫌なことじゃない」のだ。
人の命と猫の命を天秤にかけた時、この人にとって猫の命は換えがきく程度のものなのだ。
人は会話をする時、相手がどう感じるかを考えて言葉にすると思う。
私も常に自分の言葉が相手を傷つけていないか心配しながら会話している。
コミュ障の典型である。
でも、母は違った。
赤の他人を慮る事はできるが、自分の身内、ことに子どもに対して、その中でもカースト下位の子どもに対しては何を言ってもいいと思っているらしく、自分が正しいと思うと親切の押し売りをしてくるのだ。
「そんなつもりで言ったんじゃない」
「あんたが本当に傷ついたんだなって、その時分かった」
そう言われたが、もう何を聞いても言い訳にしか聞こえなくなっていた。
言葉に傷ついたと言えば途端に被害者に変貌する。
その性質は父親にも長男にもよく似ていて、クズはDNAだけじゃなく感染するものなのだと震えた。
人の気持ちを考えられない人とは距離を置く。
私は森で…あなたはタタラ場で…
共に生きるのは無理だから、せめて棲み分けましょう。
それが一番平和な事であると、猫は死を持って教えてくれたのだと考えることにした。