『儚い光』を読んで
はじめに
『儚い光』
著者:アンマイクルズ
“世界25ヵ国で翻訳され、オレンジ小説賞ほか10賞を受賞した、珠玉の大作。生きることの意味を探し彷徨する魂を、流麗な文体で紡ぐ、世界的ベストセラー。”
Amazonより
作者は元々詩人であり、長編小説は本作が初めて。
コルク代表佐渡島さんさんが人生で1番好きとおっしゃられている『儚い光』。
Amazonでは、現在3万円ちょっとの価格になっていて、最高価格は¥98,000だった。
さて、この本、一体どんな内容で、それだけの価値がある本なのだろうか。
この文章は、先日この本を読み終え、決して安くはない価格で購入するにまで至ったぼくが、この本とどう出会い、どうして読みたいと思い、読んで何を思ったかを以下にまとめる。
(ちょっと長いので、見出しから好きなとこだけ読んでいただいても結構です。)
出会い
ぼくがこの本を知ったのは、外でもない佐渡島さんが公言なさっているからだった。
では、その「知っている」からどのようにして「読んでみたい」、「欲しい」と思ったのか。
それは編集者として名高い佐渡島さんが人生を変えられた本だと言えば、「それはぜひ読んでみるか」というミーハーな考えがベースにあったのと、
sady会という佐渡島さんのnote有料購読者に向けたオフ会に参加したこと、この二つが大きな理由だ。
sady会に際し、オフ会なるものへの参加経験が極めて浅いぼくは「佐渡島さんは何を話すのかなぁ、どんな人が来るんだろう」とばくばくに緊張していた。
「好きのおすそ分け」が有料マガジンのテーマであるため、佐渡島さんが“自分の好きをおすそ分けする”という趣旨で会は始まった。
そこで、取り出されたのが『儚い光』だった。
スタートから約一時間弱?佐渡島さんはひたすらにこの本の魅力を語り、好きな一節を順々に恍惚の表情で朗読され続けていた。
ばくばくに緊張していたので何かを話すことがとても怖かったけれど、喋ることなくただ小説の朗読を聴くという時間は非常に心地よく、居るに易い時間だった。
しばらくして、佐渡島さんから「好きに喋っていいよ」というお声かけがあって何人かの方が普通におしゃべりを始めたのだけれど、
それでもなお佐渡島さんは朗読をやめなかった。
ぼくが座った位置はたまたま佐渡島さんの隣だったので、朗読に耳を傾けることだけに集中することを自然と許された席だった。
聴いているだけでビシビシと伝わりすぎるほどにその“好き”の熱は伝わってきた。近くにいるだけでのぼせてしまうほどだった。
薪の温度は燃えて炎を上げている時よりも炭になって赤く光っている時が一番高いらしい。炭に激しさはなく、穏やかだけれど、すごく熱い。
そんな小説の朗読タイムの中で聴いた一節が、焼印のようにぼくの脳に刻まれた。
一年、二年前をふり返るのは不可能なことだった。
だが、何千年もの過去を思うことはーーー
ああ!そんなことは……なんでもないことだったのだ。
この一節が何故だかとても強烈で忘れられなかったこと、
この他にもこの一節に勝るとも劣らない文章が次々と読み上げられたこと。
「大好きな文がありすぎて…」とおしゃって折り目だらけになった本を慈愛の目で抱えられている佐渡島さんが忘れられなかったこと。
この3つが大きな理由になって、この本が欲しい、読みたいと思った。
そして、手に入れて読んだあかつきには、
自分の『儚い光』に自分だけの折り目をつけるんだと強く決意した。
読みたい、欲しい
欲しいと思ったので「買いますか、ポチッとな」で済まないのがこの本の魔だ。
どういうことか、
なんとこの本、既に絶版のなのである。
絶版とは、もう作られていない本ということで、動物にたとえるなら絶滅しているということだ。
だから、書店で購入することは叶わない。
そのため、ネットの海に飛び込んで、
「絶滅したと思われていた『儚い光』が見つかりました‼︎」という観測情報をひたすらに探すしかない。(中古本を探すしかない。)
まず、天下のAmazonを訪れる、ない。(現在はありますが、後述します。)
ヤフオクに出品はなし。TSUTAYAのサイトを探しても在庫なし。BOOKOFFのオンライン在庫を調べても、近所の店舗に尋ねても在庫なし。神保町の古書店も回った。「日本の古書店」というサイトを探してもなかった。
メルカリでようやくサムネイルを見つけた!と興奮するも、その左上には既に“SOLD”の赤い帯が憎々しく巻かれていて買うことはできなかった。
どこを訪れても、その不在の足跡はありありと残っているものの、実物には出会えない。
ないないないないないないない。
どこにもない。
絶版なことに加えて、佐渡島さんが各所でこのことを公言なさっている影響もあって、多くの人がこの本を購入し、自分の宝物にしたのだと思う。
(実際、ご本人も100〜200人は購入に導いたとおっしゃていた。)
もう読むのは無理なんじゃないかと諦めかけた時、それは突如Amazonに姿を現した。感動した。
感動したが、その価格は¥98,000だった。
うん、無理。
本当に申し訳ないけれど、馬鹿なんじゃないかと思ってしまった。たしかにすごく欲しいけれど、その価格はどうやったって出せないでしょう。
誰がその価格で買うんだ…。(実際まだ売れていない。現在は出品を引っ込めた様子。)
この時『儚い光』を買うことを諦めた。
とりあえず読みたい
買うことはできないけれど、とりあえず読むことはしたいなぁと思ったときに、
ふと、大学時代に絶版本の先行研究やらなにやらを調べるために国会図書館に行ったことを思い出した。
「そうか、図書館を探せばとりあえず見つかるかも」というある意味当たり前の小学生なら誰でもやっていることをそのときはじめて気づいた。
お金なしで本が読めるすばらしいシステム図書館。本当に図書館のシステムを考えた人は天才だと思う。
まず手短なところから、と近所の図書館を調べる。
すると、なんとすんなり蔵書があって、ついぞ『儚い光』を読む機会を得た。
こんな目と鼻の先にあったなんて!
いざ、実読
『儚い光』のあらすじは、
単行本裏からそのまま引用すると、
ナチスの殺戮を逃れた七歳の少年ヤーコプは、ギリシャ人地質学者アトスに救われ、二人はアトスの故郷の島へ逃げた。家族を虐殺されて心に深い傷を負った少年を、アトスは深い慈愛で守り、貧しいながら豊かな学問を授ける。戦後、二人はトロントは旅立ち、穏やかな日々が続く。過去の悪夢から逃れられぬヤーコプは、アトスが授けてくれた学問に救いを見出すようになる。そして、アトスのほか唯一の理解者となる妻にも巡り合った。そしていま、ヤーコプがついに得た人生の喜びは、多の者によって新たな意味を持とうとしていた…。
という内容。
ぼくはずっと読みたかったから、このあらすじを何度も何度も読んだ。だから読む前にヤーコプもアトスも慣れ親しんだ名前になっていた。とにかくはやく彼らに会いたかった。
そして、待ちに待った『儚い光』のそのページをめくる。
「第二次世界大戦中には、数えきれないほどの日記や回想録や覚え書が書かれたが、その多くは紛失したり捨てられたり焼かれたりした。裏庭に埋められたり、壁のなかや床の下に隠されたりしたまま、隠した人が死んだために回収されなかったものもある。
記憶のなかにしまいこまれて、ついに書かれることも語られることもなかった物語もある。しかし、紛失していたものが偶然に発見された例もあった。
一 九九三年の春、詩人であり、ある学者の遺著である戦時回想録の翻訳者でもあったヤーコプ·ビアが、アテネで車にはねられて死亡した。享年六十歳。歩道で彼のかたわらにたっていた妻も重傷を負い、二日後にあとを追った。ふたりには子どもがいなかった。亡くなるしばらく前から、ビアは回想録を書きつづっていた。彼はかつてこう書いたことがある。
「戦争の体験は終戦とともにおわるのではない。ひとりの人間の仕事は、その人の人生と同じく、ついに未完のままおわる」
この一ページ目から文そのものに、作品にすごく引き込まれた。このページだけでも次のページをめくらずに五回は読んだ。
最初のページがそうであるなら、他のページはどうであるかと言えば、
他のページもこんな具合にグワーっと引き込まれる文章がどこに目をやってもあった。そしてそれを何度も読み返した。
そんな読み方をしたものだから、もちろん、なかなか読み終わるわけもなく、読み終わるまでに一ヶ月かかった。図書館の返却期限はもちろん過ぎ去っていて、返却するようにメールで催促が来た。(なかなか返却せず、すみませんでした。)
何故、そんな読み方をしたのか?と言われると、「そうしたかった」というのと「そうしないと読めなかったから」というのが答えだ。
それは純粋にぼくのリテラシーが低いことを意味することなのかもしれないけれど、
本文の文があまりに詩的で一度では理解ができなかったり、
何度も読み返したいと思わせる「美しい」という言葉でしか形容できない流麗な文章だったからだ。
普段であったなら、「そんな一ページを何度も読み返す小説なんてめんどくさいし、読みにくい。」と考えて読むことを放棄してもおかしくないのだけれど、
そうはさせてくれない。読んだものを掴んで離さない魅力が本書にはあった。
sady会で佐渡島さんがおしゃっていたことでもあるのだけれど、近頃はネタバレをされてしまうとその価値を失ってしまう物語が多い。物語のオチを知ってしまうと楽しめなくなってしまう。例えば誰々が黒幕とか、誰々がここで死んでしまうとか。
こういった物語は基本的に1回しか楽しめない。(各所に散りばめられた伏線を確認するという意味では2回目もあるのかもしれないが。)
この小説のネタバレはなんの問題もない。
言ってしまえば、主人公ヤーコプが苦痛からほだされ、人生の喜びを感じるも不運にも交通事故で死んでしまう話だ。
そんな一言で終わってしまうかもしれない話だけれど、複数回の読書にこの物語は悠然と耐えうる。
感想
人にとって「過去」は大きな十字架であり、希望の源泉でもある。
この物語は「消せない過去をどう抱えて生きるか」の物語だと思う。
そしてそれは、人間誰しにとって当てはまることだと思う。沢山の後悔や苦しい記憶、今の自分を形成したと思える大事なあの人との記憶や腹がよじれるほど笑った幸福な記憶。過去は常にあり続けるも、人生のフェーズによって、過去はその意味合いを変容させいく。
『儚い光』は、
戦争もナチスの迫害も体験していない私たちに、その巧みな筆致により主人公の抱える苦痛を読者に生々と肉々しく理解させる。
その苦痛は本当にさりげない会話や日常の仕草の描写から匂いのように感じ取れる。そして、その描写はたとえ悲惨な辛いことを綴る場合でも、あまりにも美しく、甘美さすら匂わせている。
作中では半世紀以上の時が過ぎる。
7歳の少年だった主人公ヤーコプにとって痛ましく苦しい記憶となった体験は、青年となっても、成人となっても、老人のなっても、同じ記憶の過去である。
しかし、その過去は、重ねた歳月や経験、周囲にいる人によってその意味を変容させていく。
読者である私たちは、ヤーコプにとって過去が今どういうモノであるのかを常に考えながら読み進めることを否が応でも強いられる。ヤコープが過去を思うたびに、自分が抱える絶望やトラウマの記憶などの過去を、(ヤーコプと比べれば屁でもないことなのだけれど)思い出さずにはいられない。気づかないうちに自分をヤーコプに重ね合わせてしまう。
重ね合わせてしまうからこそ、ヤーコプの周囲にいる人たちの発言や行動に苛立ちを覚えたり、癒されたりする。彼らはヤーコプに対して言葉を発しているずなのに、その言葉は私たちに届き、人生の喜びや愛の意味を説いてくる。
そして、これらの言葉は、また繰り返しになるが、決して特別な言葉でないはずなのに出会ったことのない美しさを感じる文章なのだ。
まとめると、
この小説は、「一緒に生きる小説だ」と感じた。
読む人によって時期によって、本とのクロスポイントは変わるとは思うけれど、人生の中で何度でも読み返したくなる。人生を一緒に歩みたくなる。読み返すたびに変わらぬ文の美しさに酔い、今までとは違うことに気付き、いずれかのページに埋もれていた自分を見つける、そんなことができる小説なんじゃないかと思う。
この小説体験は、唯一無二だ。
これと差し変わるものは無いんじゃ無いかと心から思う。
本当に素敵な小説を読めて嬉しい。
加えて個人としては、「言葉」で何かを表現することに自分も挑戦したいなという気持ちに強くなった。
おわりに
感想の通り、
本当に自分にとって唯一無二の作品で、手におきたい小説だなぁと心から思ったのですが、図書館のモノのため返却しなくてはなりませんでした。(当たり前。)
そんな折、もはや習慣になっていたAmazonの『儚い光』のページを覗いていたら、ある日、¥98000と¥10,000が出品されていました。(当時は3万円はありませんでした。)
1万円も十分に高いのですが、ぼくとってはそれだけの価値があるものに既になっていましたので迷わずに【購入する】ボタンを押しました。これが『儚い光』を手に入れた経緯です。
こんなに長々といろんなことを書いてしまいましたが、
最後に言いたいのは是非是非一読していただきたい。それだけです。
そしてこの本と出会うきっかけをくださった佐渡島さん本当にありがとうございます。