子どもの意見を聞く試み
政府や自治体が子どもや若者の意見や要望を聞く試みを始めたというニュースを見た。どこかの自治体では、実際に学生が議会の席に座り、意見を答弁して、図書館の勉強スペースを広げてほしいという案を出し、それが実現した例もあるようだ。
若いときからの成功体験というのは、自信や希望に繋がるから、実現まで漕ぎ着けられれば、それは良い試みなのだと思う。ただ、学生自身が大人と同じ土俵で意見を交わす事に慣れておらず、どうしたらわからない場合は、職員がアドバイスをしたりする場面もあるのだという。また、政府や議会も全ての意見を反映するわけではないので、出来ない場合はどうしてそれが出来ないかフィードバックを行うようにするのだそうだ。とりあえず意見を聞く機会くらいは与えてやろうという、本当に小さな一歩なのだと思う。
それ自体は歓迎するが、ここから若者たちが劇的な変化を成し遂げようと思うのなら、狡賢い大人たちと対等に議論出来るだけの知識と技術と経験を持ち合わせていなければならないと思う。果たして今の日本でそれが出来る若者がどれだけいるのだろうか。私の感覚では非常に少ない又は皆無に等しいのではないかと感じている。それは皮肉なことに他でも無い大人たちが、日本の制度を駆使してそういう子どもを作り上げてしまっているからだと思う。私自身もその1人という実感はある。
彼らは家庭でも、学校でも、自分が意見を出してそれが大人たちに認められたという成功体験がほぼないと言ってもいい。日本はそういう教育制度だし、子供の意見をいちいち聞きながら家のルールを決めている家庭もほとんどないだろう。何故ならば大人は自分が育ってきた環境を参考に子育てや教育を行うからだ。だから子どもの意見を引き出す方法が分からないのである。そんな中で育てられた子どもも又、自分の意見をしっかりと言う機会に恵まれず、結果自分の意見が上手く相手に伝えられず、相手と上手に議論する力も養えずに社会人になる。社会人になってから、ようやくそのスキルが重要だと思い知らされるのだが、社会人になってから訓練したところでたかが知れているのかもしれない。実際企業のミーティングや国会等で議論が平行線になっていたり、やたら時間だけかけて何も決まらなかったり、生産性のない話題にばかり時間を割いているというのはよく聞く話だ。これはきっと、日本人の意見を戦わせる訓練不足によるお互いへの理解力の乏しさが産んだ弊害のように思える。何を決めるにも曖昧で時間ばかりかかる。これが今は国力の低下さえも招いているように感じてならない。その癖根回しや忖度には人一倍頭が回る人間がいるのも相当厄介である。そのエネルギーを少しでも正当な議論の場に持ち込んでほしいものだ。
私は今回の子どもたちへの試みを反対しているわけではなく、むしろチャンスだと思っている。しかし、大前提として、子ども達自身が単に今の自分たちの目先の問題のみに終始せず、自らが将来生きる社会にとって何が重要で、今、どのような事を議題に上げて大人達とやり合うべきなのかを考えられていない事には、このチャンスはまるで活かせないのではないかと思うのである。問題提起して大人がすぐに実現してくれる事は、言い方を変えれば大人にとって容易い課題だという事だ。始めはそれで成功体験を積むのも悪くはないが、私が子ども達に期待するのは、大人が頭を抱えて唸ったり、子ども相手というのを忘れて本気で答弁を返してくるような意見を言ってくれることだ。その純粋さで、大人の汚い思惑や根回しにも気がついて、議論の中でそこまで追及出来たら、少なくとも大人が用意した土俵の上で、大人の想定内の発言のみをする子ども扱いされた発言の場ではなくなるだろう。
子ども達自身がそれに気がついて、この制度を意義ある物として活用してくれることを切に願う。
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