優しさのバトン
鬱を抱える母が、最近とみに老いてきた。
力が著しく無くなり表情にも覇気がなくなって、皺やしみも増え、鬱のせいもあって食欲もなくなり、結果、急ピッチで痩せてきている。脚は鳥の足のようだ。
話しかたも凪のように穏やかで、スローになって思考力が下がっているのが判る。生き生きとして明るく、周りを楽しませようとハイスピードで言葉を並べていた母は、もはや過去の人になった。
けなげにも健康的に残っているのは持ち前の優しさと、ひたすらに自分よりも人のことを優先して考える慈悲の心ばかり。
母は最近、なにかと僕に感謝するようになった。細かなことでも、何かあるたびに『ありがとう』を欠かせない。
どこか寂しそうな表情から発せられるその言葉は穏やかで、偽りのない本心から出ているものだと判る。
僕はその都度、自分は無駄ではなかったと感じ、古い暖炉みたいな母の心の温もりをみる。仄かな幸せを感じる。だけどその裏には自分の死が迫ってきたという事実を、母が薄々悟っていることが示唆されて、僕は母にやにわに共感しようと努める。
時々「母さんが元気でいてくれたら僕なんかどうでもいい」と口走ってしまい、母を怒らせてしまう。
そんな母を介護していて、しばしば死と生について考える。
※
人は必ず死ぬ。でも、死ぬために生まれてきたのではないし、死ぬために生きているわけでもない。僕らはただ、時間を相棒にして流れるように今を生きる存在。それは分かる。人間として、もっと言えば一個の生物として、直観的に分かる。
こう分かったふりして僕は何度も自分に問いかける。生きる意味ってなんだ?と。僕は実は何も分かっちゃあいないのだ。
自分の脳内の、あちこちにガタが出ているボロ検索エンジンに『生きる意味』と入力して、必死こいて検索するが、出てくる記事はずっと0件。これまでも0件だったし、多分僕が死ぬ直前までずっとそのままだろう。
いや、待てよ。僕らが相棒にしているのは実は時間ではなく近くにいる人だ。そうふと自分に気づく。優しいだけでも行動に移さなければ意味がない。自分からまわりの人、さらにまわりの人がその次のまわりの人へと、次々に優しさのバトンを回していかなければならないのだ。
そうすることによってのみ、この過酷な世の中で僕らの心の中で細々と燃える理想の炎、つまり平和のともしびを、少しずつ世界に広げられるのではないだろうか。
僕は今も母さんや、周りの人たちから沢山のバトンを受け取っている。このバトンは沢山持っていて損するものではないが、人に渡しても損はない。バトンを渡しながら生きていこう。優しさという聖火台の炎を灯したロウソクのようなバトンを持って、命ある限りずっと走り続けよう。これが僕の生きる道なのだ。