小説『魔の山』 と、いわゆるスクールカーストの神秘を考える
小説のここまでの大まかな展開
トーマス・マン『魔の山』がようやく終盤に差し掛かってきた。1,500ページの極めて分厚い本なので、終盤だけでもほぼ400ページはある。
この作品ではここまで主人公の教育係的存在の小洒落たイタリア紳士を始めとする非常に頭脳明晰な論客が、巧みな弁論を続けてきた。彼らの終わりなき議論、討論やその他の様々な体験を通じて、主人公のハンス・カストルプは感化されてきた。
そして彼はきわめて多様なことを考えさせられながら、人間的に成長してきている。
以下、微妙なネタばらしがあるので、これからこの小説を読もうとしている人は注意してほしい。
なお長大な作品なので、ひとつの場所の中でいくつものエピソードやテーマが並行して同時に流れているのだが、ここでは一個のテーマに絞り考えていく。
インパクトのある(強い)人物の出現
終盤に差し掛かって、イタリア人たちの円滑な議論の場を乱す人物が現れた。立派や体躯を持ち堂々とした王者のような、初老のオランダ紳士である。このオランダ人は議論好きでは全くないし、言葉もあまり上手ではない。イタリア人にひっそりと言わせれば『ばかな老人』である。
さてオランダ人はこのイタリア人やその友人が議論を盛んに戦わせている場を好ましく思わず、その堂々とした態度で話を民主的に中断させようと、平和的にしかしどこか威圧的に呼びかける。
さしもの賢明なイタリア人とその議論仲間もこのオランダ人の強烈な一睨みにはさすがに圧倒され、そうなるとその討論のそれまでの存在感や生き生きとした光彩、明晰な論理力はたちまち失われてしまい、あたかもナンセンスな言葉遊びのように変化してしまう。
イタリア人は『ばかな老人』と表現していたが、オランダ人は彼らの議論を『脳髄』と表現する。要するにお互いに煙たいのだ。かなりわかりやすい対立であるが、オランダ人に分があるのは明らかである。
この現象を主人公のハンス・カストルプは面白く思い、それを言葉や知性を超えた『神秘』と名づける。主人公は最近作品内でよく『抜け目がない』と表現されるが、それはこの異国の二人をぶつけることを目論んだことが大きいと思う。
彼らのその後の化学反応を観察して、自分自身をさらに成長させようと企んでいるのだ。なるほどしたたかな主人公である。
スクールカースト
さて、当時のヨーロッパではそんな言葉はなかっただろうが、上にみた神秘は現在の我々であれば、わずか一言で表現できる。
つまり僕らがかつて学校で多かれ少なかれ経験してきた『スクールカースト』そのものだ。
勿論この作品の舞台は学校ではなく、国際的な結核病棟つまりサナトリウムである。しかしこの作品のこの場面は、
「閉鎖された空間に複数の人間が置かれると、おのずと彼らには暗黙の階層関係が生まれる」
ことを明確に示している。
これは理不尽な現象だが、同時に人が集まった場所に必然的に生じる人間関係であり、ヒトの集団の本質的な特性と言えるだろう。
この階級制度のシステムはシンプルに説明しようとすると簡単そうで意外と難しい。しかし学校のような閉鎖的な空間に置かれた人なら誰でも直観的にしかも完璧に理解していると思う。
説明する必要はなさそうだが、あえて僕なりに示してみよう。
スクールカーストの性質
以下はおそらく学校の経験からご存知だろう。つまり勉強ができる人が必ずしもカースト上位であるとは限らない。むしろ、特に非進学校では、そういう人は下位になりがちだ。
からくりはきわめて簡単で、身体が小さくたとえば運動が苦手だったり積極性に欠ける人は、たとえどれほど頭が切れても迫力に欠ける。一方で身体が大きく積極性があったり威圧的な人は、たとえ勉強ができなくても、とにかく迫力がある。
その王者の迫力はあたかも巨大な重力場のように働く。他の者がある程度の大きさや迫力を持っていたとしても、王者の重力には敵わない。
たとえ嫌でも、彼も結局王者の周りを周回せざるを得なくなる。この強大な引力はまさに集団を統率し秩序だてる原動力となるのだ。
そういう場で豊かな論理力や知識や教養が一体何になろう。この場面はまさにそういうことを言っているのだと思う。
スクールカーストの行きつく先は
とはいえ、多くの方もご存知のように、それらの知性や教養の多くは、一旦その王者的人物の支配領域から開放されると、水を得た魚のようにとたんに輝きを取り戻す。もしくは輝き始める。あるいは何らかの手段で領域内で反旗を翻すことも少なくない。
社会の多くの有力者の個人史を考えるとわかりやすいかもしれない。
僕は小説内のこのイタリア人もオランダ人も気に入っている。それぞれが異なるタイプの魅力を持っている。そして僕の読んだ範囲内ではまだ彼らの決着はついていない。
イタリア人もしたたかな人物として描写されているから、もしかしたらこの先、形勢がひっくり返るような非常に面白い場面が用意されているかもしれない。勿論、何事もないかもしれない。少なくとも今の僕にはわからない。
大作家トーマス・マンがこの神秘にどんな解答を見出したのか、これから明らかになると思うと楽しみである。あと少ししかないが、この先も楽しく読めそうだ。