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三島由紀夫と鈴木大拙を読みはじめる
noteを久しぶりに書くと勘が鈍る。これは前にも書いたとおりで、案の定、今もそうである。文章を書く術をその都度忘れてしまうからではないかと、ふと思い至った。
今もこの記事をある程度書いたうえでそれらを見返しているのだが、まあなんという拙文だろう、このままではまずい。とても公開できる代物ではない。手を加えなければ。その上で、今後も文章を書き続けなければならぬ。
と、このような思考の流れを経て、さらにリハビリも兼ねて、せめて一週間に一日、千文字を目安として記事を書く習慣をつけようと考えた。読書日記が主になると思う。
だがこんなことをつらつら並べていても読者は退屈だろう。ブラウザバックを押されても仕方がないといえる。そこで早速本題に入ることにする。
三島由紀夫を久しぶりに読み始めるなど
僕は三島由紀夫という作家が大好きである。その経緯は前に述べたと思うので、そちらを読んでいただくことにしよう。前に読んでいた『モンテ・クリスト伯』とその他数冊の書籍を読了したので、三島の『美しい星』に颯爽と取り掛かった次第である。
トーマス・マンやカズオ・イシグロなど、かつては読んでいなかった何人かの作家を経て、長い月日ののちに三島を読むのだから、あたかも故郷に帰ってきたようである。一昔前の流行語に「実家のような安心感」というものがあったが、まさにそれ。その感覚を味わっているところだ。
さて三島の作品に豊饒の海という四部作がある。その中の三作目『暁の寺』と四作目『天人五衰』は、知っている方も多いと思うが、仏教色の強い作品となっている。
昔の大学時代に、僕は学業そっちのけで三島を耽読した。仮面の告白、金閣寺、潮騒などの代表的な作品から、あまり知られていない作品まで、二十冊は優に読んだと思う。
それらをすべて再読するとなれば、僕の後半生が三島一色で塗りつぶされるだろう。それもまたいいことなのかもしれないが、僕は今ではなるべく多様な著者の多様な作品を読みたいのである。そこで再読するのは上記の作品群だけにする。(未読の作品に関してはこの限りではない)
前よりもっと深い理解をもって、これらを読めたら言うことはない。
さてその中で僕が一番読みたいと思っていて、しかも世間的にも一番難解な書籍は間違いなく豊饒の海四部作、それも上に括弧付きで書いた最後の二作だろう。
これらは仏教や神道の知識が多く必要とされる。そのような知識をこれまでつけてこなかった僕だから、このまま読むとまた「訳が分からない、だけどものすごい」というかつての残念な感想で終わってしまうことは明らかだ。
前知識をつけておかなければ。そこで鈴木大拙というわけである。
鈴木大拙の書籍を並行して読む
鈴木大拙を読みだしたのには他にも理由がある。これもご存じの方が多いと思うが、僕は自分の脆く不安定な心を落ち着けるために、マインドフルネス、つまり瞑想を日課にしている。そこで餅は餅屋というわけで、有名でしかも世に広く認められた人の書籍を読もう、ということだ。
まだ最初の章の最初の講座を一度読んだだけなので、多くを語ることはできないが、すでに目の覚めるようなことがいくつも書いてある。正しいかどうかはわからないが、僕の解釈でよければその一つは次のような内容だ。
われわれはよく精神的に不満を持つが、それは内の自分と外の自分が合致していないからだ。有限の存在であるわれわれが、無限の存在である(ように見える)外界に、近づき同一になろうとするために、苦悶が生じるのだ。
そしてその苦悶が生じたときに、それと気づくことができれば、その迷いから覚める道も近い。なぜなら迷いと悟りは表裏一体だからだ。
引用というより独自解釈であることに注意されたし
表現はこれよりいくぶん難解だが、今のところカントのような哲学書ほどではないと感じる。そしてカントを少しだけかじったので、この解釈の一段落目の意味はある程度分かる。だが二段落目の理解は今のところ難しい。もしかしたら、それが理解できるようになったら、禅という概念も十全に把握できるのかもしれない。
色々書いて千文字を優に超えてしまった。しかもいい文章を書けた心地もまるでしない。だが恥を忍んで投稿することにする。書き続ければいずれ勘も戻るだろう。もしかしたら、もっと文章を上達させることもできるかもしれないのだ。