すぐそこにある「明日」と、その先にある「未来」について(タイムレンジャー 49~50話)
未来戦隊タイムレンジャー Case File 49「千年を越えて」、Case File 50「無限の明日へ」を見ました。以下雑感。
タイムファイヤーと浅見竜也
データのロックを解除したタックからさきにもたらされていた不吉な予言、「ブイレックスのパイロットは今日死亡した」。ブイレックスの操縦者とはすなわちタイムファイヤーのことであり、2001年の竜也たちにとってそれはまさしく滝沢直人を指す言葉である。
第48話において、直人はシティガーディアンズにおけるすべての地位と権限を剥奪された。ブイレックスのボイスキーも解除されたことで、直人の持っていた優位性は危ういものとなる。だが直人は諦めず、ブイコマンダーを持ったまま逃走。これさえあれば、と再起の炎を燃やしている。
浅見会長がどれだけ力を振るっても、直人の精神を「ブイレックスのパイロット」から引きずり下ろすことはできなかったわけだ――もちろん、シティガーディアンズの本部長という肩書を失った彼は今やただの一般人である。会長の秘書が慇懃に避難所の場所を示したのも、それを彼へ暗に知らしめるためであろう。一般人には戦う理由も、その必要もない。力あるものに守られて震えているのが関の山だ。
だが、逃げ延びる先で直人は一つの光景を目にする。小鳥の入った鳥籠を持って、必死に逃げる少女。それを執拗に追うゼニットの大群。
もはや警備会社の人間でもなんでもないはずの直人は、少女とゼニットの間に割って入る。タイムファイヤーに変身する暇もなく、装備品の拳銃一丁で立ち向かった彼は、激しい銃撃を浴びながらも、少女を無事逃がすことに成功する。少女が落とした鳥籠から、小鳥たちもどうやら飛び去ってしまったようだ。
遡れば、かつては直人もトラ・サクラという二羽の小鳥を飼っていた。ロンダースに自分が拉致されたのをきっかけに、近所の子どもへ譲り渡したのだ。愛鳥との別れは、彼がそれまで歩んできた日常との決別でもある。本作ではしばしば平和の象徴として白鳩が飛び立つ場面が挿入されているが、直人にとっての小鳥も、同じような意味合いをよりパーソナルな形で与えられているように思える。
少女と小鳥は直人の眼前から消え、代わりに横っ飛びでやって来た竜也がゼニットを蹴散らして彼を救い出す。
瀕死の重傷を負いながらも、直人はまだ何も諦めていない。会長は「お前は急ぎ過ぎた」と直人のことを総括しているが、確かに彼のぎらついた眼光はこんな状況であっても生への執念を漲らせている。いつの間に弾倉を交換していたのか、再び迫りくるゼニットたちに直人は拳銃を構え、ぼろぼろの身体で立ち向かおうとする。仰向けに倒れ込み、今にもゼニットに刃を振り下ろされそうになっている直人。それを弾き飛ばし、竜也は直人に肩を貸して必死にその場を逃げ出す。竜也は「歴史」の思い通りになどさせる気はなく、無論その中には直人のことも含まれている。
ようやくたどり着いた緊急避難所は負傷者であふれている。ベッドと毛布をあてがわれ、傷の手当てを受けた直人は、傍の竜也から顔を背けて「よりによってお前が命の恩人とはな」と呟く。ブイコマンダーを付けたままの手に力が入り、毛布がくしゃりと歪む。一番弱みを見せたくない相手に、大きすぎる借りを作ってしまった。忸怩たる思いを抱くのも当然だ。
ここにきて、二人はようやく言葉を交わす時間を得る。かつては竜也が一方的に話しかけ、直人はそれをうざったそうに聞き流したり、聞こうとしなかったりしていた。だが、流石にこの近距離では逃げ場もない。
「まだ続けるのか」と竜也は直人に問う。力を手に入れた先に何があるのか。力だけじゃ生きられない。さきにユウリの発した問いは、竜也はもちろんのこと、直人の中にも印象深く残っていたようだ。
だが、竜也は思わぬ反論を食らう。「俺が力を追ってるだけなら、お前は浅見という力から逃げてるだけだ」――真っすぐ竜也の顔を見上げて、直人は静かに言う。逃げたその先に何があるのか、竜也も即答することが出来ず、視線を逸らす。
「結局俺たちは同じってことか。力にこだわり過ぎて……」
力を追い続ける者と、力を遠ざけようとする者。直人と竜也の立ち位置は正反対なのに、やっていることは結局一緒だ。二人はここで、それを互いに確認し合う。がむしゃらに走って走って、近視眼のようにすぐ近くの風景だけは見えているけれど、どこにゴールを置いたらいいかわからない。目前の明日は見えても、はるか先の未来が見えない。
自分の生き方を変える気はないし後悔もしていない、と断言する直人に対し、竜也は「生き残ったら生き方を変える」と宣言し、ゼニットに対応するべく駆けだしていく。
(ああ、お前は生き残って、きっとそうするんだろう。その根拠がない癖に確かな自信、相変わらずおめでたくてばかばかしくて、俺は昔からずっと――)
残された直人は目を閉じ、心の中でつぶやく。
(力を追い続けた先か。もし、生き残れるなら……)
タイムレッドを白黒反転させたようなタイムファイヤーのスーツが暗に示すように、直人と竜也は似ているけれど逆転した立場の、決して交わらない平行線上に立っている。平行線ということは、同じとは言えないまでも、相似の答えを得ることもできるはずだ。
少し時間は飛ぶが、50話のラストにおいて、竜也は自分のゴールを「浅見の力にちゃんと向き合う」ことだと決めている。ならば、その平行線にある直人のゴールは「己の力にちゃんと向き合う」ことだとも考えられる。今まで「急ぎすぎ」てきた直人は、もしかしたら、自身の今持っている力とちゃんと向き合うことを忘れていたのかもしれない。ブイレックスやタイムファイヤーの力はあくまでも30世紀からの借りものだ。他人を蹴落とし、裏切り、裏切られてきた直人本人の力――権力や地位のことだけではなく、もっと総合的な、誰かを守って生きるための力とでもいうべきもの――は、実はそう遠くまで及ぶものではない。
竜也が飛び出していった後の病室に、先ほどの少女が現れる。手にした鳥籠は空っぽのままだ。少女に一瞬優しい表情を向けた直人は、鳥かごに目をやり、少し真面目な顔になる。
「鳥、戻ってこないのか」
こっくりと頷く少女に、小さく嘆息する直人。だが、タイミングを狙いすましたかのように、病室の窓枠に一羽の黄色い小鳥が現れ、再び飛び去ってしまう。
「貸して」
微笑んで、直人は少女に手を差し出す。あまりにも穏やかな声音は、怪我で体力を失っているからだろうか。否、それだけではあるまい。おそらくこの声の柔らかさは、直人の本来持っている「力」の一面なのだ。
先程「生き残ったらね」と自力救済の仮定で戦いに出た竜也とは異なり、直人は「もし生き残れるなら」と運命に身をゆだねるような言葉の選び方をしている。権力と地位とプライドを奪われてこの避難所に運び込まれた時点で、直人の「大消滅」における戦いは終了しており、リタイア者の彼はもはやこの一大事にかかわることはできない。直人に出来ることと言えば、自らの力、自らの手の届く範囲で戦うことだけだ。
点滴を引き抜いた直人は足を引きずり、苦しそうにあえぎながら小鳥を追う。今の彼にとってはこんな移動ですら、自分自身との戦いなのだ。古びた建物の外階段、普段なら数秒もかからず難なく駆け上るような高さを、手すりを握った腕で引っ張り上げるようにしてよたよた登っていく直人。そっと両手を伸ばし、包み込むように小鳥を捕まえると、無事鳥籠に収め、そのくちばしを嬉しそうに指先でつつく。自分だけの力で、彼は彼自身の戦いに勝利した。
だから、そのすぐ後に彼が通りすがりのゼニットの兇弾に倒れたことも、決して負けではない。むしろ、直人が自らの戦いに勝利し、自らの力と向かい合えたことの揺るぎない証明である。タイムファイヤーでなくなったただの滝沢直人は、いまふたたび小鳥=穏やかな日常を生きる権利を手に入れた。そして、だからこそ、派手な戦闘も効果音もなく、たまたま巻き込まれただけの一般人として命を落とす。
駆け寄った竜也に抱き起された直人は、「よう」と何でもないふうに挨拶をして、竜也の背後に目をやる。転がった鳥籠の中、小鳥は確かにまだそこに存在している。今度は逃げ出すこともなく、しっかり捕まえておくことができたようだ。安心したように脱力する直人。
「浅見。お前は変えてみせろ」
肌身離さず身につけていた「力」の象徴・ブイコマンダーを外し、竜也に差し出す直人。それを竜也が確かに受け取ったのを見届けて、彼の腕は力なく地面に落ちる。
「生き残れ」なかった直人は、これから先の生き方を変えることはできない。穏やかな諦観の中で、彼に許されたのは死に様を選ぶ自由だ。そして直人は残り僅かな命を、ただ純粋に他者のために用いることを選択した。小鳥のことなど放ってベッドに転がっていれば、ゼニットに発見されることもなく、あたら命を失うこともなかったはずだ。適切な治療を受けることができれば、今しばらくの時間を得ることも出来たかもしれない。だが、滝沢直人はそんな最期を選ばない。どこまでも何かを追い求め続けてしまうのは、きっと彼のサガなのだろう。そして、そうやって自分が得てきた「力」、自分の人生の象徴であるブイコマンダーを、直人は竜也へ託す。
これからの生き方を、そしてみなの明日と未来を。竜也なら変えることができると、直人も半分くらいは信じてみるつもりになったのかもしれない。直人の遺言は、彼の言う「根拠のない癖に確かな自信」に毒されているかのようだ。おめでたくてばかばかしくて、なにより不思議な説得力がある。
これは完全に蛇足であるが、この直人の最期を見て、連想したのが『龍騎』の仮面ライダータイガ=東條悟である。直人から世俗的な部分を取り払い、より純粋に結晶化させたような東條。彼もまた、「英雄」という得体のしれない力にとりつかれた人間であった。違うのは、ブイコマンダーを外した直人が「滝沢直人」として竜也に看取られながらその生を終えたのに対し、東條は死ぬことによってはじめて「英雄」であることを(意識的にではないにせよ)完成させた点だ。直人の記憶や人生は強烈なインパクトとともに竜也の中に残り続け、「直人の分まで生きる」と彼に言わしめるが、東條は新聞の見出しで「英雄」とラベリングされただけで、その新聞もいずれは読み捨てられ、人々の記憶からは薄れていく。「親子を救った英雄」のことをもし思い出した人がいたとしても、その一般名詞と「東條悟」という人間とが結びつくことはまずないだろう。力を求め続けた先にあるものは、きっと案外そんな結末なのだ。
閑話休題。
もう一人のタイムファイヤー、リュウヤ隊長。50話において、彼こそがすべての黒幕であったことが明かされる。かつてタイムファイヤーとしてブイレックスのパイロットを務めていた彼は、Gゾード転送実験の折、乱れた時空間の中で二つの未来を幻視する。ひとつはギエンとブイレックスとの衝突により、2001年に大消滅が起こる正しい歴史。もうひとつは突如として現れたGゾードによってギエンが死亡し、三十世紀が消滅する間違った歴史。そしていずれの時間においても変わらないのは、二十世紀に派遣されたタイムファイヤー=リュウヤ隊長が死亡するという「未来」であった。
未来は変えられない。変えてはならないし、そう簡単に変わりもしない。
1話から繰り返し語られてきた、三十世紀人の大前提である。だからこそ竜也は「未来」の手前にある「明日」を変えようと提案し、アヤセはそこに希望を抱いたわけだ。しかし、そもそもこの大前提こそが意図的に引き起こされた誤解であったとは! 信頼できない語り手ならぬ信頼できない上司は、新人タイムレンジャーたちにこのルールを信じ込ませた。そして自分は裏からこっそり手を回し、自らの「未来」を変えるために、滝沢直人という身代わりを仕立て上げたのだ。
だが、足掛け6年も苦心して計画を練り上げたのにもかかわらず、呪いのような「未来」は容赦なくリュウヤ隊長の身に訪れる。もしかすると直人がブイコマンダーを外した瞬間、「ブイレックスのパイロット」の肩書は再びリュウヤ隊長に戻ってきてしまったのかもしれない(だとしたら直人は意図せず意趣返しをしてのけたことになる)。タイムジェットを発進させようとするアヤセともみあいになった結果、隊長は致命傷を負ってしまう。
リュウヤ隊長が二十世紀の様子をモニタリングし、「ケースファイル」として記録していくことにより、三十世紀における「過去」の道筋が確定していく。タイムレンジャーの活躍もロンダースファミリーの暗躍も、すべては規定事項である。ユウリたちに用意された幸せな三十一世紀の世界は、おそらく隊長からのご褒美兼慰謝料であったのだろう(ハバード星人のシオンの運命にだけは、いくら地球の歴史を変えても関与できなかったようだが)。そのご褒美を作り上げるためにも、きっと隊長は様々な過去に幾分かの手入れをしていたのではなかろうか。時間保護局にとっては禁忌中の禁忌であろうが、そんなことよりも隊長にとっては自らの死の運命を回避することの方が大切であったのだ。
自分と三十世紀の人々の命を守るために過去を変えようとするリュウヤ隊長と、自分や二十世紀の人々の命を守るために未来を変えようとする竜也。リュウヤ隊長も赤と黒のスーツに身を包んだタイムファイヤーであったからには、タイムレッド=竜也とは平行線の場所に立っている。二人とも、何かを守るため、恣意的に今ある時間の流れを歪めようとしていることには変わりないのだ。
「正しい歴史」なんて、生き残った者の史観でしかない。リュウヤ隊長と竜也のどちらがより「正しい」のか、時間の内部にいる彼らには判断することはできない。そもそもリュウヤ隊長にとっては、自分が生き残り、直人が死ぬ「第三の歴史」こそが「正しい歴史」と呼べるものであろう。そしてその程度の変更など、「歴史にとっては些細なことだ」と彼は言う。
出典を忘れてしまったのだが、以前こんな台詞を読んだ記憶がある。曰く、未来から過去へ介入することは難しい。未来人が過去で起こした些細な出来事も、結局大きな時間の流れに収束され、全体の流れが変わることはない。だが、過去から未来へ介入することは簡単だ。そうあれかしと強く思いただ懸命に毎日を生きていけば、その積み重ねがいずれ望む未来へ繋がってゆく。
リュウヤ隊長が変えようとした「歴史」、すなわちリュウヤ隊長の望む「明日」は、彼の言う通り、時間の本流にとっては些末な変更事項でしかないのかもしれない。結局「ブイレックスのパイロットが死ぬ」というトピック自体を避けることはできず、隊長が出来たのはその中身に少し手を加えることだけだ。死ぬ人間が一人だろうが二人だろうが、そんなことはお構いなしに時間は未来へと進んでいく。
竜也の変えようとする「明日」は、リュウヤ隊長の「明日」とは異なる性質を帯びている。それはすでに規定された未来の中の1パーツではなく、これから作り上げていく未来の礎となるはじめの一歩だ。それが時間の流れにどのような影響を与えるかはわからないし、もしかしたら影響など無いのかもしれない。だが、竜也にとって「明日」は常に未知であり、自ら切り開ける可能性に満ちている。すべてが終わった一年後、マイペースにジョギングをする竜也は、確実に自分の足で時間を進み続けている。
ギエンとドルネロ、ついでにリラ
長く激しい最後の戦いが続く中、ネオクライシスに乗り込んだギエンは、解除キーもないのにどんどん昔の性格を取り戻しているように見える。人工頭脳とネオクライシスを何本ものケーブルで直結したことで、なにかおかしな不具合が出てしまったのだろうか。一人称は「私」から「僕」に変わり、ギエンはネオクライシスの操縦席から何度もドルネロを探して呼びかける。ドルネロが死んだ、と過日ゼニットに聞かされたことなど、すっかり忘れてしまっているようだ。実際タイムロボのこともわからなくなっていたようなので、記憶を保持するメモリの部分が壊れてしまっているのかもしれない。ネオクライシスが倒れたときも送受席内のパネルやスイッチをバンバン叩いてでたらめに腕を振り回し、無理やり動かして起き上がらせようとしていた。今までのギエンを支配していた残酷なまでの理性はもうどこにも見当たらない。
ビルや街を破壊して喜んでいる様子は、まるで子供が積み木で作った建物を壊して遊んでいるようだ。様子こそ昔のギエン青年に似ているが、シャボン玉を吹いてキラキラと目を輝かせるようなかつての性格とは似ても似つかない。解き放たれた破壊衝動はもはや消し去ることは出来ないのだろうか。ドルネロの役に立ちたいという純粋なギエンの思いが、強い武力を得たことによって悪い方向へすくすくと成長している。
ドルネロはギエンの改造手術のことを人生における最大の失敗であったと述懐していたが、少なくともギエン自身にとってはそう悪い出来事ではなかったはずだ。なんたって数字も数えられるようになったし、誰かにバカにされることもなくなった。全ては初めての友達であるドルネロと一緒にいるため、ドルネロに喜んでもらうため。そのひたむきな思いが、心の最奥に潜んでいた破壊への渇望に塗り固められ、上書きされて、あの誰の言うことも聞かず暴走するギエンが出来上がったのではなかろうか。今回ネオクライシスと自分を直結させたことにより、ネオクライシスへの負荷が自らへもフィードバックされ、過負荷状態になったことで人工頭脳の上塗りが剥げてしまったのかもしれない。剥き出しのままそこに残されたのは、「破壊行為を行えばドルネロが喜ぶ」という、単純で誤った命題のみであった。
結局タイムレンジャーによって体内のλ-2000を分解され、ギエンの生命活動はストップする。ネオクライシスから投げ出された彼は、そこにいないドルネロに「お金が数えられるようになった」と呼びかける。
「1、2、――」
それより先の数字は声にならなかった。金属の身体は小さく弾け、パーツが外れる。圧縮冷凍ではない、本物の死がギエンに訪れる。彼にとっては二度目の死だ。一度目のときはドルネロが彼を生き返らせ、救った。二度目の今回にも、きっとギエンには大好きなドルネロの姿が見えていたのだろう。なぜならギエンとドルネロは「ずっといっしょ」なのだから。
さて、未来人たちは竜也の手によって時間移動体に閉じ込められ(竜也がさっと抜き取っていたカードキーはマニュアル航行をするためのものか?)、強制的に3001年へ送り返されてしまった。今まで圧縮冷凍してきた囚人たちも貨物となって、一緒に三十一世紀へ戻ったはずだ。ドルネロが刑務所兼アジトの場所を言い残していったので、そこからも残りの囚人がはこびこまれているだろう。
ここで気になるのがリラの所在だ。彼女の性格からして、あっさりと圧縮冷凍されるようなことは考えづらい。ドルネロの死の一報を受けたときにも、彼女はタイムレンジャーに連絡をとったり時間移動体へ向かおうとしたりするのではなく、「安全なところ」へ避難するのだとゼニットたちを追い立てていた。
もしかすると2001年の隙間を縫うようにして、リラと僅かなゼニットたちは「大消滅」を生き延びたのかもしれない。彼女のことだ、十分なお金さえ手に入ればどこでも楽しく暮らしていけるし、お金を手に入れる手管もおそらくいろいろと持ち合わせているのだろう。いずれ竜也と再会する日もあるのかもしれない。ちょっとわくわくする。
西暦3000年の未来人とひとりの男
3001年に強制送還されたユウリたち4人は、2001年に戻るべく行動を起こす。完全なる命令違反、クーデターである。その過程でリュウヤ隊長は命を落とし、三十一世紀に残ったタックとの別れも経て、再びタイムレンジャーは2001年に降り立つ。
直人の死を悼み、ドモンはホナミにきちんと最後の別れを告げ、そして彼らは大消滅を止めるために動き出す。最終目標はブイレックスのマックスバーニングでギエンのλ-2000を粒子レベルまで分解することだが、そのためにはまずブイレックスの体内にあるλ-2000を高熱処理し、ζ3へ変換する必要がある。DVディフェンダーの再調整が必要だと言うシオンに「あるよ」と静かに告げる竜也の口調には、まるで直人の人生を引き継ぐ決意がにじみ出ているようだ。片手にタイムチェンジャー、反対の手にブイコマンダーを装着して戦いに臨むタイムレッドの姿にはどうしても胸が熱くなる。第三総合研究所の手によってブイレックスのボイスキーが解除されていたこともありがたい。あのときの直人にとっては絶望的なニュースであったが、今の竜也にとっては福音だ。なんなら直人もボイスキーのことを思い出し、あえて竜也にブイレックスを託したのかもしれない。自分を追い出したシティガーディアンズに使わせるくらいなら、竜也に使わせたほうがまだマシであろう。敵の敵は味方理論だ。
タイムロボが必死にネオクライシスを足止めし、ブイレックスの上に飛び乗ったタイムレッド=竜也がマックスバーニングを放つ。二十一世紀を守るためのトリガーは、やはり二十一世紀の人間によって引かれなければならない。未来人に出来るのは、歴史の大勢にとってはとるに足らないような些細な介入をすることだけだ。「明日」の行方を決めるのは、現にその時間を歩む人間たちである。
かくして直人の執念と竜也の意思により、「大消滅」は回避された。
それはとりもなおさず、またしても「未来」の行く末が変化してしまったという意味でもある。
気が付けば竜也は真っ白な空間に立っている。向かいにはタイムレンジャーの他の仲間たちもいて、竜也と最後の挨拶を交わし消えていく。タイムジェットや時間移動体が無ければ時間の行き来はできないはずなのにだ。
そこはきっと時間が改変されゆく狭間に生まれた、ちょっとしたエアポケットのような場所なのだろう。2001年の大消滅が起きなかったことで、ユウリたちの戻るべき未来も不確定なものになってしまった。幸いなのは、リュウヤ隊長によって記憶消去の処置を受ける前に彼らが「前の三十一世紀」から逃げ出したことだ。高速学習によって身につけた二十世紀の知識は予定通り失くしてしまうだろうが、竜也とともにタイムレンジャーとして過ごした思い出は、新しい「明日」へと持っていくことができるはずだ。
二十世紀を自分の故郷だと言い、あくまでも守ろうとしたシオン。リュウヤ隊長が改変した未来でも特に恩恵を受けられなかった彼は、それでもやっぱり未来人なので、どうしたって未来へ帰らなければならない。それでもこれから彼が生きる三十一世紀は、今まで生きてきた三十世紀とは全く違った色彩で彼を出迎えてくれることだろう。シオンはもうひとりぼっちではないのだ。トゥモローリサーチに残されたタイムロボターは、彼が確かにここで時間を過ごしたことの揺るがぬ証明である。
ドモンは竜也にホナミのことを頼んで去っていく。その理由はエピローグで明らかになる。一年後、ホナミの腕には生まれたばかりと思しき赤ん坊が抱かれており、竜也はその赤ん坊に「ドモンジュニア」と呼びかけている。いつの間にそんなことになっていたのか……。がんばれシングルマザー。
一時の感情の高ぶりで子どもをつくるような、責任のとれない重大ごとをドモンは良しとしないような気がする。ゆえに、新しい命を望んだのはホナミのほうなのではないだろうか。よく覚悟を決めたなあ! ドモンの思い出に縋るためではなく、ドモンの生きる三十一世紀へ時間を紡いでいく前向きなアクションとして。赤ん坊は分かりやすく未来のメタファである。ドモンが確かに変えた、ホナミの「明日」の結果がこれなのだ。
ドモン自身はジュニアがちゃんと無事に生まれたかどうかもわからないのが辛い所だが、いずれ未来で自分のそっくりさんとすれ違ってびっくりしていたら愉快だし、そもそもドモン自身がドモンジュニアの子孫である可能性だって存在する。鶏が先か卵が先か。
アヤセは無言で、少し眉尻を下げたような笑顔を見せる。竜也とアヤセはこの一年に散々腹を割って互いの主張をぶつけ合った。最終的にはアヤセの気持ちを竜也が汲み、双方納得の上で最後まで5人での活動を続けるに至った。まずはそのことを寿ぎたい。無事に一年過ごせて本当によかった! 隊長が提示した都合の良い三十一世紀ではオシリス症候群は治る病になっており、アヤセはその治療を蹴って2001年に帰還してきたわけだが、これから戻る新しい3001年に同様の治療法が存在するかは定かではない。それでもアヤセは「生きる」と竜也に宣言する。竜也にとって、それは何よりもうれしい一言であろう。健康になって思う存分蕎麦を食ってくれ。
そしてユウリ。「もっと早く好きと言えばよかった」と過去形で伝える竜也に対し、彼女は何も答えない。無論、表情や腕にこもる力の強さは彼女の心情を痛いくらいに教えてくれる。それでも彼女が竜也への思いを口にしないのは、未来人である彼女が竜也の気持ちを持っていくわけにはいかないという優しさだろうか。リュウヤ隊長が存在していたからには、浅見の家ははるか1000年後まで血を絶やさずに続いていくのだろうし、一人っ子の長男である竜也はやがて家の跡目を継がねばなるまい。ユウリへの思いをだらだらと引きずったままでは、竜也は結婚などしようとはしないかもしれない。
ドモンとホナミのように、もっと時間の余裕があれば、気持ちを伝えあって精いっぱいに日々を楽しみ、後悔なく別れを迎えるような選択肢もあったかもしれない。だが、竜也とユウリはそれを選ばなかった。生真面目なのだ、二人とも。そして不器用でもある。だが、馬跳びをしたり、ホットケーキを食べたり、そんな小さな記憶の積み重ねが、二人だけのささやかな歴史を形作っている。肌寒い屋上で毛布にくるまり、温かいココアを手に見上げた星空を、二人はきっと忘れない。それが充分であったとまでは言わないが、その時の二人にとって最善の時間の過ごし方だったことには間違いないのだから。
光の中消えていくユウリたちは、果たしてどんな未来へたどり着いたのだろうか。リュウヤ隊長の作り上げた幸せな3001年か、消滅が起きて荒廃した3001年か、あるいはまったく違う3001年か。そもそも、無事に未来へ戻れる保証はない。歴史の大筋が変わらなくても、人ひとりの命など吹けば飛ぶようなひとしずくだ。今回の竜也たちによる行動が、ユウリたちの祖先の運命に影響を与えた可能性はゼロとは言い切れないだろう。行き着く先は神のみぞ知る。だが、彼女たちが自分の望んだ「明日」を求め、満足する結果を得たことだけは確かだ。
1年後とその先
エピローグでは、みんなとの別れから1年後、2002年の街を竜也がひとりジョギングする様子が描かれている。といっても、ホナミ親子に挨拶したり、父親の乗った車とすれ違ったり、そこに寂しさは感じられない。途中、仲間のそっくりさんたちとも遭遇し、そのたびに少し驚いて、それでも竜也は自分のペースで走り続ける。険の抜けたユウリ(のそっくりさん)に体力仕事なトラックドライバーのアヤセ(のそっくりさん)、エンディング映像のように子どもたちと遊んでいる保育士のドモン(のそっくりさん)、そしてクラスメートとはしゃぎながら楽しそうに駆けていくシオン(のそっくりさん)。ご先祖様なのかな、と思うのもまた楽しい。シオンが同年代の少年たちと楽しそうにしている様子はなんだか目頭が熱くなる。
そして道すがらのペットショップでは、どこかで見たような顔の眼鏡の男が、小鳥を求めに来た人をにこやかに接客している。
これは完全な妄想であるが、「大消滅」回避で未来が変わったことにより、リュウヤ隊長が滝沢直人をタイムファイヤーに選び出す「未来」も無くなってしまったとしたらどうだろう。2002年の竜也は自らの経験として「前の三十世紀に連なる二十世紀での戦い」の記憶を保持しているが、その約1000年後に発生するリュウヤ隊長の画策が丸ごと無かったことになれば、その時点で滝沢直人の死亡フラグは消滅する。隊長が過去のどの段階から手を入れていたのかは定かでないものの、晴れて「生き残れ」た直人が、大学卒業後の進路に浅見グループではなくペットショップを選んでいたとしたら?
妄言はさておき。
一歩一歩、竜也はこの二十一世紀で新しい時を刻んでいく。自分の望む「明日」をひとつずつ選び取りながら、彼はゴールへ向かって進んでいくのだ。力から逃げ出し、自由を欲してまわり道したからこそ、見える景色と得られた仲間があった。メインルートから外れた場所から眺める「力の先」は、きっとかつて見た景色とは違ったように彼の目に映るだろう。一年間、本当にお疲れさまでした。浅見達也の戦いはこれからだ。