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幻想のロールモデル

~前書き~

2022年は、
心がスパークするような最高に素敵なことも、
「人生ってこんなに大変なの..?」と穴に篭りたくなるようなことも沢山あったけれど、
みんなにたくさん支えてもらいながら、どの選択をするにも妥協なく自分の心の声に従いつづけて前に進んでいくことができた一年でした。

「今年何かをアウトプットするエネルギーはもう残っていないよ、」
と思えるほどに走り抜けた年の瀬だけれど、
私が今年出会った、”彼女”の話だけは
2022年が過ぎ去ってしまう前に滑り込ませておきたいと思い、実家の年末行事の合間合間で書き起こしてみています。



− 2022年 夏、京都。


ロールモデルなんて、見つからないと思ってた。
今までの人生でもいたことが無かったし、そもそも人の人生はそれぞれだから願ったってその人にはなれない。
その前提を差し引いても、「その人みたいになりたい、」と思えるほどに憧憬する感覚は抱いたことがなかった。

そんなわけで私は、私の人生にはロールモデルなんて存在しないと思ってたんだけど。

今年の夏、京都に訪れた時に、
完璧な”彼女”に出会ってしまったのだ。


その日は37℃くらいの猛暑で、あついあついって言いながらgoogleマップで小休止先にと見つけた喫茶店に入った時のこと。

私たちは、中庭が見える全面ガラス張りの窓際の席に通された。
アイスコーヒーを注文して、冷たいお水を一気に流し込んだあと、
「は〜あつい、お店入れて良かったね、この後はどうしよっか?パッと入ったけど、ここ、クラシカルで素敵だね。」
なんて連れにぶつぶつ話しながら店内をぐるりと見渡していたら、
その人が私の目を捉えた。

こんなに暑いのに、中庭のテラス席に座っている人がいる。
ガラスの向こう側だけ気温が12℃くらい低いのだろうかと思うほど、涼しげで優雅な佇まいに目を奪われた。

”彼女”は、物思いに耽っていた。

ときどき煙草をつまみつつ、無地のA5ノートに絵を描いたり、言葉にならない言葉を綴ったりしていた(ように見えた)。

くるぶし丈の綿のワンピースを着て、肩にはショールを引っ掛けている。
強めにカールした栗色の長い髪の毛越しに見えた表情は、凛としているのにどこかあどけなさもあって、それこそ年齢不詳。
高めに見積もって、きっと30代後半くらいなのかな。多分実年齢はもう少し上なんだけれど、若く見えるタイプの人だと思う。

その人は、物憂げに遠くを見つめているかと思えば、ハッとしたように手元のノートに視線を戻して、ちょろちょろっと言葉を書き留めるのだ。
そしてゆっくりとペンを置き、紫煙をくゆらせる。
何を想っているのだろう。

”彼女”はノートと睨めっこしながら、何かを絞り出していた。
とても大切なものだけを詰め込んだものをじっくりと煮詰めて、一番ピュアで美味しい上澄みだけを掬うように、何かを記しているのだ。

”彼女”はきっと、自分だけの内的世界をきちんと持っていて、自分の大切なことを丁寧に拵える人だ。
決して内にこもることなく、等身大の自分を軽やかに社会に差し出す勇気を携えている、凛とした人。


私も大人になったら、あんな佇まいで生きたい。
そんな憧憬の念を抱いたのだった。

・・・・・・


東京の日常に戻ってからも、ふとあの人のことを思い出す。
あの人の姿を想うと決まって、心がふわりと軽くなる。

”彼女”に確かに陶酔していた。
ただ、それは理性が飛ぶような甘ったるい朦朧としたものではなく、目の前の生活、心の使い方、さらには叶えたい願いまでもが”彼女”を鏡写しにして伺えるような、実世界での指針となるものだった。
(これがまさしくロールモデルである。)

あんなふうに、凛と軽やかに、何も恐れることなく、自分のために自分の時間を使ったらいいのだ、”彼女”みたいに。

”彼女”は、もし自分の内に醜い感情を抱いたり、些細なことで苛立ったりすることがあったとしてもきっと、
「そんなこともあるわよね、だって人間だも〜ん!」と、
自分の気持ちをちゃんと抱きしめて、自分のことをよしよしすると思う。
そして、そんな影をも光を強めるためのエッセンスにしてしまって、人生のスパイスとして、ことこと煮込んじゃうと思う。

だから私もそうしたらいいんだと思えて、自分を許せる。

そんな”彼女”が、私の初めてのロールモデルなのだ。


− 2022年、年の瀬。

あの人はいまどこで誰と何をして、どんなふうに年末を迎えようとしているのだろうか。

そんなことを想像したくなって、しようとするのだけど、心がざわついて、その先を想像できない。いや、したくない。
全てを知ってしまったら、多分ロールモデルではなくなってしまう。
「あの人の1日密着インタビュー」とかあったらもはやインタビュアーを名乗り出るほどに陶酔しているのだけれど、
生々しい生活をもし垣間見てしまったら、私の中から”彼女”がいなくなってしまう。

あの人とは言葉も交わしたことがなければ、目すらも合ってはいなくて、ただ、たまたま訪れた京都の喫茶店で見かけただけ。
なのに、ノートに何を綴っていたのか覗き見したかったし、話しかけてみなかったことを今でも少し後悔しているくらいに陶酔しているのって本当に不思議。

でもきっと、あの時に話しかけていたら、ここまで心を捉えつづける”彼女”は存在しなかったと思う。
私は”彼女”について何も知らないからこそ、空想に妄想を重ねに重ねて、幻想のロールモデルとしての”彼女”と出会うことができたのだと思う。

あの人と会うことは二度とない。(仮に出会うことがあったとしても、きっと気づかないと思う。)
だからこそ、いつまでも安心して”彼女”に憧憬し続けることができる。

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