秘匿な珍車〜マニ30形〜
この車両に課せられた使命とは?
小樽市総合博物館の屋外展示車両スペースを歩いていると、こうして何もない…ように見えて何の変哲もない客車に遭遇する。
しかし、この車両は鉄道界。そして日本の経済界を守る為に大事な役割を果たした重要な鉄道車両だったのである。そして、日本では現在こうした役割を果たした車両はこの1両だけしか保存されていない。さて、このマニ30形は一体何を運んだ鉄道車両だったのだろうか。
え、そんなものを…?
このマニ30形客車が搬送していた荷物。それは、『大量の紙幣』である。大量の紙幣を搬送する役割を使命…としているなら、つまりこのマニ30形は『現金輸送車』という事になる。
現代のニュースではもう絶対的に聞かないが、昭和や平成の初期には
「現金輸送車が何者かの襲撃に遭う」
というニュースが報じられたり、そうした事件があった。その、『現金輸送』の役割を鉄道が担っていたのだ。
しかし、なぜ鉄道で現金輸送車を製造して走らせる必要があったのか。そこには、当時の日本の交通事情・国土発達の事情があった。
当時は日本の中でも、道路より鉄道の方が発達し実権を握っている時代。そうした中で、安定的な紙幣の供給には鉄道による現金輸送車の製造が必要不可欠だったのである。
しかし、冒頭の話に戻るが鉄道で現金を輸送していた時代がある…という事実。今ではもう考えられないだろう。昔の鉄道には様々な使命を背負わせていたのだ。
過程〜鉄道での現金輸送事情〜
さて。鉄道での現金輸送の時代が行われそういった背景が存在していたというのは記したとして。
実は、鉄道での現金輸送を実施したと言っても、最初から現金輸送車があったわけではない。かつてはとてつもなく信じられない環境にて、日本全国に紙幣を届けていたのだ。
その手法とは。写真のように2軸の貨車に日銀職員と警備員が乗車し(写真のような木造貨車ではなかった)、道中をずっと添乗し現金を見張るという警備体制だった。
加えて、貨車という事で貨車には人間を乗せる想定を一切していない構造。そうしたものだから、貨車内は真っ暗。車内の灯りは、ロウソク1本でしのいで耐えたという。加えて、車内には食料の持ち込みが難しい状況。生の弁当などは貨車の湿気などで傷んでしまう為、食料は乾パンなどの保存食を持ち込んで長い道のりを耐えた。
加えて、貨車での現金輸送には大きなデメリットがあった。
そのデメリットというのは、『到着時間がハッキリしない』という事だ。昔の貨物列車では、長距離を何度も繰り返し荷物を繋げて解放しての繰り返して走行。そして、それを何度も経て目的の列車が完成し目的地に到着する。
現金輸送の貨車時代は、短くても2〜3日。長い時では、1週間近くに渡って貨車の添乗をしている事もあったという。そうしたものだから、貨車を活用した現金輸送の時代は命懸け、そして劣悪な時代だったのだ。
そして、貨車による現金輸送最大の命懸けデメリットとして…貨車の突放、解放などによる警備員・日銀職員の怪我のリスクも挙げられる。
当然、貨車というのは『人間ではなく荷物の積載を前提に造られた』車両だ。そんな中に人間を乗せて走行し、貨車は時に機関車から走行中に解放され引き上げ線や入換線、時には操車場に侵入する。
そうした際、貨車の2軸台車から突き上げてくるその振動は大きく、人間の怪我のリスクは非常に高い環境下だったのだ。
現代では考える事が出来ない…劣悪な状況だが、こうして先人たちは経済を回転させ現金をやり取りしていたと思うと、鉄道に課せられし重要性を紐解ける。
貨車時代脱却〜環境改善に向けて〜
日本は戦争の時代に突入していた。真珠湾攻撃に、広島・長崎の原子爆弾投下。そしてポツダム宣言受諾で終戦を迎える。
この時の戦後で、日本銀行から運輸省に対して現金輸送専用の鉄道車両の設計命令が下される。遂にあの劣悪な貨車添乗の日々から解放…と行きたかったが、
そうは行かなかった。当時の日本は、アメリカによる統治支配のGHQ占領下に置かれている状況。そうした中では、予算や新設計の鉄道車両設計なども上手く進んでいくはずもなかった。
この依頼はインフレによる紙幣発行の増加。そして、時代の流れによって日本の治安が悪化して警備の必要性が増した事によって現金輸送専門の車両として現金輸送車の必要性が急務…となった事によるものだが、その道は平坦ではなかった。(1度は車両の製造申請を出したが保留されている)
日本を統治し占領していたGHQは、昭和24年にマニ34形として6両の現金輸送車の製造に許可を出した。日本初、鉄道の『現金輸送車』の誕生の瞬間である。
そして。この鉄道における現金輸送車の開発と設計にあたっては『一般の客車と殆ど見分けがつかないように』という目標のもと設計された。
その結果として、車両は当時の標準客車形式であるオハ35形式を参考に特殊な荷物室・警備室に仕上げて全く別の物々しい鉄道車両が爆誕したのだった。
それでは。
「一般の車両に偽装し、現金の輸送を確実に行う為の車両として、マニ34形はどのような車両となったのか?」
について、解説していこう。
まず、マニ34形は両端に荷物室を設置した。この荷物室には『紙幣』を積載し、日夜紙幣を輸送し。時には役目を終えた紙幣の回収に…と奔走していたという。
そして、その真ん中には警備室。警備室の室内には
・トイレ
・洗面所
・簡易キッチン
・三段寝台
が設置され、列車内での1夜を明かす事が『取り敢えずは可能な状況になった。
そして、ここからがとんでもない車両の情報。このマニ34形は、『現金輸送』の使命を担っている。当時、鉄道の世界では荷物・郵便の輸送は当たり前のように施行されていた…が。マニ34形では、いざという時に銃撃された際に備えて車両の窓を塞ぐ鉄板(鎧戸に近いもの)を設置していたという。武器や兵器を用いられても車両が防御を敷いたのだ。
加えて。車両の『通路』にも特別な工夫を取り入れた。
通常、列車や身近な通勤通学の電車に乗車していて、あるものの存在に気付かないだろうか?(1両の単独走行は除外して)
そう。貫通扉。(電車と電車を通り抜ける道)この貫通扉の存在も、マニ34形の開発設計では仇になる部品だった。
その為、マニ34形の妻面を覗くと平べったいテールランプだけのシュールな顔をしているのである。
不必要だった面に、
『外部からの現金強盗襲撃を防ぐ』
という最大の防御が存在している。
車両には客車としては異例の巨大な1,000ミリの荷物扉が設けられている。この荷物扉から紙幣を積載して輸送するのだが、積載時には厳重に荷物扉を天幕で封鎖。そして、周囲に多くの警備員や鉄道公安官を配置して最大限の警備を敷き、「これでもか」の熱量で現金を日本中に届けていったのである。
こうして、日本の鉄道に現金輸送車としてマニ34形が6両、昭和24年に世に放たれたのであった。
現金輸送の道
マニ34形が世に放たれ、遂に現金輸送が始まった。これで環境改善と現金輸送に光が…とそれは良いが、この車両は一体どんな道を歩んだのだろうか。
実はマニ34形。普通に一般の列車に紛れて活躍していたのである。
「それって車両を作った意味あるの?」
と思うかもしれない。しかし、当時は客車による一般例車・優等列車も当たり前の時代。マニ34形は当たり前のように他の車両と混ざって活躍を開始していたのである。
現金輸送車として、特殊な姿をしていてはならないし外部には特殊な容姿をしていてはならない。そうした形で、マニ34形はヒッソリと活躍をしていた。
加えて、当時は長距離急行列車や客車列車には荷物客車・郵便客車を併結して運用する文化が存在していたのでそうした事情も、マニ34形の同化した運用を加速させていく一端となった。
しかし、このマニ34形。撮影や趣味観察には相当の努力…というか細心の注意を払っての撮影をせねばならず、警備警戒の眼差しが公安官や警備員から向けられるのは通例だったという。
基本的に、マニ34形は通常の列車に増結されて全国を走行した。
しかし。マニ34形がどの列車に増結され、何処を出て何処に向かうのか。そして、紙幣の積み下ろしなどを何処で実施するのかについては国鉄職員でもごく限られた人間しか知らなかったという。
加えて、日銀職員や警備員に関しては乗車・警備任務の直前になってようやくマニ34形への添乗乗務の現状や行き先を知らされる。
本当に国鉄内部・そして日銀の中でも『限られた僅かな人間』しかその仕業を知る者は居なかったが、鉄道ファンはいつでも熱心なもんだ。様々な車両特徴や走行の傾向から、マニ34形の走行パターンを読んでいたという。
そんな車両?居ませんよ?
このマニ34形は、質実剛健に。そして、その生涯を語る上ではその存在が『謎』とされていた事は、生涯を語る上で絶対に外せない事実ではないだろうか。
国鉄の中には、鉄道車両・保有車両の保有台数を掲載して書類に計上する『両数表』というものが存在している。しかし。マニ34形国鉄の現金輸送車はその存在を生涯に渡り、『一切』掲載されてこなかったのだ。(ただし何年かはアリ)
鉄道車両は通常、落成製造されてから必ず書類の掲載や車籍の存在を公表する為の資料に掲載される。
だが、マニ34形…現金輸送車は国鉄の資料に一切掲載されなかったのだ。
その背景には、一部の人間や鉄道趣味世界からのマーク。そしてごく何人かの傾向から
「あの車両はどうやら現金を搬送している車両かもしれない」
という噂が流れた為…ともされているが、その真実は不明だ。
しかし、マニ34形は時代を経てもその存在を鉄路に残し、鉄道趣味誌の写真内にチラッと映り込んだりという事などが時々あったという。あくまでも写真の全てに大きな規制があったわけではないのだ。
だが、このマニ34形。そして鉄道の現金輸送車というジャンルにおいてとにかく異端で特殊だった事実は、
『その存在が意図的に隠秘されあたかも存在しないように扱われた事』
だろう。
次の世代へ向かって
マニ34形の登場から、時代は30年以上が経過した。鉄道においても、現金輸送車という地位は静かに一定の地位を定着させており車両を交代させようという動きがあった。
その中で登場したのが、『マニ30形』なのである。
このマニ30形の変化として行われた事の中に、車両をかつてのマニ34形にて採用していた『鋼製車体』から『アルミ車体』に変更するという変更の舵取りがあった。
アルミ車体に変更して、マニ30形は紙幣の積載量をアップ。こうして、現金輸送車は新たな世代へ向けて発進して行ったのだった。
マニ30形…新形の現金輸送車の開発に向けても、これまた通常の客車と同化させるような設計を取り入れての開発が実施されている。
前回のマニ34形は、改良を経た上で『マニ30形』としてその生涯を終えた。
そして、その後継となる車両にも『マニ30形が踏襲される』事になったのだが、この車両には50系客車の設計を大きく反映しての設計が用いられている。
また、この車両として大きく改良されたのはその居住空間も…であった。
マニ30形には、同じく車体の中央に警備室を設置して両端に荷物室を設置する構造にした。荷物室には紙幣を積載し、車両としての仕組みを基本的には変更していない。
さて。変化した警備員の居住空間に際してだが、まずはこの『リクライニングシート』である。この装備も、前回のオハ35系をベースにした車両ではなかったものであり、居住空間の向上に繋がったモノの1つである。
そして横のガラスは万が一の襲撃や銃撃に備えての防弾ガラス。厚さは18ミリあり、その警戒体制は万全に敷かれている。
そして、寝台区画。前回のオハ35系ベースのマニ34形ではこの寝台も3段形状になっていたのだが、マニ30形としての新造設計車は2段式の寝台となった。
そして、この寝台は通常の車両…であるならばA寝台車と同等の設備(広さ)だったとされ、確実にその居住性は向上し警備環境・添乗環境は向上した。
実はチラッとと見える場所に、鏡のような場所というか流し台のような場所があると思われるのだが、分かるだろうか。
この場所も、マニ30形としての車両向上に大きく貢献している部分なのだ。
前回のマニ34形にも、簡易キッチンの装備があったがこの新造されたマニ30形には新たに『電子レンジ』と『冷蔵庫』が設置されたのだ。
当初の現金輸送では、乾パンなどの保存食品で飢えをしのいでいたのだ…というあの頃からすれば、こうして新たな車両では冷蔵庫に電子レンジと革命的な危機まで装備され、日本全土をこの車両に乗車しているだけで1夜を過ごす事が可能な状態にまでなっている。
マニ30形の現金輸送スペース。
白いコンテナに紙幣を積載しての現金輸送を行う…のだが、この中に紙幣は2億円相当が入るのだという。
そして、ガサっと置かれているのは硬貨用の袋。この硬貨用の袋には、4万円分の硬貨を入れて輸送する事が可能だったという。
このスペースも、マニ30形にのみ用意されている区画で、他の車両には決してないもの。そして、マニ30形だからこそ用意されている厳重な場所だ。
この場所にマニ30形は紙幣・硬貨を満載し、日本の経済動脈を支える為に日々尽力していた。
マニ30形。実は新たなる現金輸送車としてこうした設備の搭載も実施された車両なのだ。
天井部に、テレビモニターのようなモノが設置されているのだが、この部品はマニ30形の車内に積載した紙幣・硬貨を常時監視するシステムである。
こうした部品の設置を垣間見るあたり、マニ30形の生きた時代。そして決死の現金との攻防戦や死守に至る気持ちをまざまざと感じる車両だ。
落陽、現金輸送車?
現金輸送車は、マニ30形の新製としてマニ30-2007〜2012までを新製し、2001〜2006までのマニ34形から続いた旧型の現金輸送車の時代と交代した…かに思えた。
が、しかし、時代の流れとは違うモノであり、マニ34形が走行していた時期の長距離急行や夜通しかけて走行するような夜行の列車というのは少しずつ減少していく傾向にあった。そういった中。マニ30形は生涯の岐路に立たされていたのだ。
そんな中。マニ30形の次の就職先となったのが、荷物列車であった。
荷物列車とは『鉄道小荷物』というのを指定の駅で回収し、その荷物を下ろして積んで、目的地に向かう鉄道の宅配便のような列車であった。こうした列車の機関車の後方部に連結され、マニ30形は静かに活躍をしていくのだった。
しかし、そんな荷物列車にも役割の終焉が迫り来る。そして遂に、鉄道界に大きな夜明けが来てしまうのであった…。
こんにちはJR
マニ30形は、50系客車の荷物版として登場したマニ50形を厳重に改良した現金輸送車という立ち位置にいた。
そして、そんなマニ50形…たちは国鉄分割民営化でJRになり北海道・東日本・東海・西日本・四国・九州…との分割を経て荷物列車自体が廃止されると、役目を終えて引退した。
しかし、マニ30形は引退しなかったのだ。国鉄の昭和62年分割民営化。マニ30形は、JR貨物に所属する形で『旅客車両』としてカウントされ配置となった。だがしかし秘匿な扱いに関しては変化していないままである。
そして、マニ30形は荷物列車が廃止された後、貨物列車に混じってその活躍を継続していた。現在でも、貨物列車に混じって機関車の次位に少し不恰好な荷物客車の写真が散見されるのだが、コレに関してはマニ30形の引退間近に撮影されたものである。こうして、マニ30形は秘匿なまま。静かに、ひっそりと分割民営化の転換期をも経済を支え、列島の動脈として走っていたのだ。
最後は旅客車として…であったが、荷物客車として、貨物列車に混じった存在とはいえ。その生涯や荷物列車文化を最後まで伝え続けた伝承者として、個人的には頭の上がらない客車である。
足枷〜新たな交代〜
マニ30形は晩年、JRとなってから貨物列車に混ざって活躍したがその足並みは万全でなかった。
貨物列車の速度向上を実施する事になったのである。JR貨物が新形の110キロで走行できる新型のコンテナ貨車、コキ100形を投入したのだ。これにより、マニ30形は引退が決定した。加えて、現金輸送の事情にも引退の翳りが影響していた。
マニ30形の最高速度を見てみよう。マニ30形は客車として製造された為、最高速度が95キロ。それに対して、コキ100形は貨物列車として走行する事を前提に新設計されたので時速設計は110キロと貨物列車としての高速が叩き出せるようになっている。
まずは、こうした速度の差として足並みが揃わない事が影響したのだった。加えてもう1つ。マニ30形には強烈なデメリットが存在しているのだった。コレを挙げられて仕舞えば、もう勝てないだろう。
意外なモノと交代する
鉄道での現金輸送には、とてつもない時間がかかる。車両をどうにかして足並みを揃えるなんて話の問題ではなかったのだ。
それが、日銀の方法である。
平成5年。日銀はトラックによる現金輸送を開始した。この方法なら、非常に楽で迅速な現金輸送が可能なのである。
それは。
『日銀本店で紙幣をトラックに積載して、日銀の支店でトラックから卸す』
だけで済むのだ。
加えて、鉄道での現金輸送での時代を想起して頂きたい。鉄道で現金輸送を実施していた時期には、駅全体を大規模に封鎖。そして、駅を封鎖した折に現金を積む際の扉を警備員で塞ぎ更には防護の布を敷く。
そして、JR時代には貨物列車に併結されたがこの場合も非常に厳重で大警戒を敷く大変っぷりだった。
マニ30形を併結した貨物列車は特別扱いとされ、何たる事か貨物ターミナルをマニ30形の現金積載の為に全封鎖。そして、現金の積載が終了するまでターミナルには全く関係者以外立ち入れない状態になっていたのだ。
しかし、トラックでの輸送であればどうだろうか。
現金輸送をトラックに切り替えれば、日銀本店を出る際の警備と積み込みの警備。そして、日銀支店で卸す際の警備だけで済むので非常に効率が楽になる。
こうして鉄道の現金輸送は平成15年に終了。長い長い鉄道現金警備の戦いが終了した。
そして、マニ30形は1年間の保留と経ていたのか平成16年に引退。遂に秘匿な客車として鉄道の世界で全く表に現れず、その存在は一部のファンや職員のみが知るマニ30形がその終わりを迎えた。
だが、マニ30形はこのままで終わらなかった。
第二の道は…?
平成16年、廃車となったマニ30形。仲間の現金輸送車たちは次々に引退し廃車の道を…となったが、ラストナンバーの2012号車は意外な場所に旅立つ事になった。
その場所が、現在の保存場所である北海道だ。
このマニ30形が廃車になった際、丁度北海道では日銀の小樽支店が役目を終えて公開の時を迎えていた。
加えて、日銀の業務や事業に対しては秘匿性や秘密義務…といったかつてのような保護性を持つ会社の時代ではなく、日銀の会社体制として会社の事業公開や歴史に関しての社会発信をするようになっていた。
その中で日銀が選択したのが、マニ30形・現金輸送車と日銀小樽支店の公開だったのだ。こうして、鉄道の世界では全く公開されてこなかった現金輸送車は遂に引退してから陽の目を浴びる事となりようやくその存在を世間が知る事になった。
そして、マニ30形は居住地であった隅田川を離れて北海道・小樽へ。日銀の小樽支店と共に歴史の象徴として語られるべくして、彼は新たな人生を迎えたのだった。
ちなみに。マニ30形の活躍…に関しては、日銀のサイトコーナー(SNSだったか)『おうちでにちぎん』のコーナーにも上がっており、その活躍や鉄道での現金輸送時代を伺う事が出来る。
マニ30形の保存先が北海道・小樽として選定された背景にはこの北海道・小樽が『北海道鉄道発祥の地』として北海道最初の鉄道、幌内鉄道の起点駅として栄えた事にもある。
北海道の鉄道はこの小樽から明治時代に線路を拡張し、その時代を築き上げた。マニ30形の保存場所として、素晴らしい場所が選定された事には間違いないだろう。
現在のマニ30形
マニ30形は、鉄道界の異端車・現金輸送の語り部として小樽市総合博物館にて保存されている。
北海道到着後、トレーラーで搬送されて小樽の大地へ。その後、こうして旧型客車の後方に連結され往時の長距離列車を想起さす姿になったが、その特殊な外見…は健在だ。
しかし、注目していないと素通りしてしまう客車でもあり中々マニアックな展示物と言えるかもしれない。
しかし、車内に入ると特殊な警備室に現金搬送用のコンテナ…と一風変わった状況というものを感じられるのがこの車両の魅力だ。
鉄道の世界でも、その生涯をずっと秘密裏にし秘匿なままで走り抜き。最後の最後にその存在をようやく世に証明した現金輸送車、マニ30形。
皆さんも、北海道は小樽市総合博物館に行った際に。そして、手宮線の廃線ウォークをした序でに是非、どうだろうか。
最後にはなってしまったが、現金を我々が使える。そして、経済が当たり前のように循環している世界…というのは、実は特別な世界なのだという事。それを、このマニ30形は教えてくれる。
必死に格闘した鉄道警備員・公安官。そして、日銀職員のその思いに是非とも気分を託してみてほしい。
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