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ACT.41『人口10万などは』

北の大地の鉄道始まりの場所に

 この小樽は、前記事でも記したように北海道最初の鉄道、幌内鉄道と深い縁を持つ場所でありアメリカからのお雇い外国人、クロフォードの尽力が大きく貢献された場所である。
 そして、そんな場所だからこそ…と鉄道の歴史や鉄道の保存にも熱心だ。この場所にはED75-501の準鉄道記念物指定車両以外にも、鉄道の歴史に大きくその足跡を残した他、鉄道の歴史や車両をじっくりと学んでいく中で『ここにしかない』一級品の車両が非常に多い。今回は、そんな小樽の大地で自分の目的であった一級品の車両を見つめ、そしてこの小樽で北の鉄道の原点を考えていこう。
 自分はこの後、道内フリー乗車券で長旅に出るのだがこうして先に鉄道のありがたみや歴史などを知っておくと、非常に面白いだろう。
 なお、冒頭写真は手宮線廃線跡を歩いていると辿り着く『手宮入口』である。こちらに関しては、観光ムードの漂う反対側、鉄道のかつて存在した消防署の雰囲気と異なり、ゆっくりと穏やかな時間が流れていた。

鉄道の力を知る

 この小樽市総合博物館の素晴らしいと思った点に、『車両の展示が活き活きしている』事が挙げられるのではないだろうか。
 写真は、少し離れて展示車両を撮影したものだが、今にも動き出しそう…というか駅に停車中の気動車急行の空気が醸し出されている。
 しかし、この気動車急行の圧巻の展示も接近して眺めていると実際には違うものなのだ。

車両はキハ56形。全国に普及したキハ58形を北海道向けに耐寒耐雪させた車両である。キハ56+キロ26+キハ27の順で連結。

 実際にこの展示されている気動車急行の車両に接近してみると、かなり荒廃している事が分かる。
 塗装も爛れており、その形状はギリギリを保っている状態なのだろうか。まだこれでも、前面から見た状態は悪くないような気がする。
 博物館では『職員やボランティア館員による車両整備を定期的に実施』とあり、車両は定期的に整備点検、定期的な塗装などをしている事が窺える。
 だが、こうして車両を眺めていると気動車急行の圧巻的な存在…とでもいうのだろうか。国鉄時代にタイムスリップしたように感じ、それこそ駅待ちや特急列車の待避に撮影しているような感覚にすらさせられる。
 こうした活き活きしている展示が、自分の中では小樽市総合博物館の展示で気に入った部分である。
 しかし、この屋外展示のデメリットとして車両の傷んだ箇所が目立つのは致し方ないだろう。

 気動車急行の展示は、グリーン車を含めた壮大な展示であった。写真の撮影としてはこうして引いた位置からの撮影でなければ車両の編成展示としての構図が不明であるので、このようなアングルを用いての撮影だ。
 引いた位置からの観察…で車両を見ていると、その国鉄色や美しい昭和の鉄道の情景などが、この晴天の小樽の情景に合わさり美しく感じるだろう。しかし、接近しての撮影ではどうだろうか。

 こうして腐食などが見えた状態になっているのが現状だ。
 実は、前記事でも触れたように塗装などに携わっている整備スタッフの方と話をする機会があった。その方からも多くの話を聞いたのだが、その中で印象に残ったのは
「小樽市の人口は10万と少しなんです。そういった市の財政、市の規模でこれだけの保存車を管理して保存していく事ってのは相当難しいわけですよね。」
多くの屋外保存車を抱えているこの博物館ではあったが、この気動車急行の接近して体感できる展示が最もその酷な状況に立たされているように感じた。
 車内も日光や自然の状況を浴びてボロボロの状態…塗装整備も追いつかず、な状況であった。
 人口は少ない都市、だとしても少しの努力が報われ。多くの人に慕われる博物館であってほしいと自分は願っている。

 ED75-501の解体に関してこの場所は物々しい状況になっていたが、この気動車急行の後部にはキハユニ…から続く、日本でもこの場所でしか恐らく見ることの出来ないであろう鉄道形式の車両が連結されている。
 国鉄時代、急行列車を仕立ててその後部に荷物車・郵便車の連結をするのは当たり前のような編成であったが、そうした文化を保存展示によって後世に残しているのは非常に素晴らしい試みではないかと思っている。

 気動車急行列車の後部に連結されている、キハユニ25形だ。
 この車両はキハ20形列の郵便・荷物合造車であり後部には客席を設けた車両である。後部の客室がバス窓となっているのがこの車両の特徴であり、寒冷地での活躍を証明している。
 キハユニ25…という長い形式だが、キ、は気動車を示している。ハ、は車両後部に連結されている普通車客室。そして、ユ、が郵便室。二、が荷物室となっており、これらの意味4文字を組み合わせてキハユニという特殊形式が完成するのだ。
 この車両に関しても接近して観察してみたかった…のだが、ED75-501のPCB解体処分にてその姿を接近して観察する事は出来なかった。

 車両の荷物室・郵便室部分。このヶ所こそがこの車両の形式を複雑化させる『ユニ』を象徴している部分であり、車両最もの個性である。気動車の活躍が多かった地域では、こうした車両たちが郵便や荷物の配達に多く起用されていたのだった。
 なお、この奥にはキハ20形の北海道形…なる車両が保存されており『鉄道員』に憧れを抱いて北海道に上陸した自分にとっては会ってみたい車両だったのだが、この車両に関してもPCB関係の処分でその詳細を観察・対面する事は出来なかった。緊急のゲリラ行程だったので、本当にこの区画に関しては改めての訪問をしなければという考えである。

 そして、『何故か』こんな車両が離れて手宮口の近くに保存されているのである。
 車両は、キシ80形。正式な車両称号はキシ80-12である。
 かつて、日本全国を走る特急列車には食堂車が連結されていた。その歴史というのは永く新幹線の時代まで続いたのだが、遡る事時代は明治の時代に山陽鉄道が車両に特殊な車両を連結しようと食道設備のある車両を連結したのが始まりだ。
 気動車にて食堂設備の運用が開始されたのは、昭和35年の話である。上野〜青森を走行した特急『
はつかり』に連結されたのがはじまり…のようだ。
 車両としては、懐かしの?車両として食堂車というコンテンツを我々のような人間でも触れられる事。そして、車両の特徴であるキノコのような空調を観察できる事にあるだろうか。
 かつては列島を走り、長距離走行の列車には必須と語られた食堂車。車両としてはこうして展示されて実際に接する事が出来るので、実際に訪問してみてほしい。

 キシ80形の後方、その気動車たちのしんがりを飾って展示されている…のは蒸気機関車だった。機関車は、C12-6。C10、C11、C12…と続く日本のタンク蒸気機関車の1つである。恐らく、保存されているC12形の中ではかなりの若番機だろう。
 機関車は綺麗な状態であり、比較的他の気動車などと比較すると状態は良さそうに感じられた。小柄な雰囲気やそのスタイル…なども様々なC形とそっくりであるが、やはりこのC12形に関しては少し愛嬌を感じるスタイルをしている。
 C12-6は中津川機関区で昭和8年頃からの活動開始。(落成頃は詳細不明)そして、北海道には昭和14年に長万部へ。その後は、釧路(標茶)や函館にも出入りしたが、小樽方面には昭和26年に着任。その頃は手宮駐泊の扱いを受けていたが、その後に小樽築港機関区に転属する。
 廃車になったのは昭和48年。現在のように、こうして博物館保存にて余生を暮らしている状況なのだ。

折り返して

 小樽市総合博物館の手宮方面に出ると、こうして動輪と石碑が垣間見える。
 動輪は形式が不明だったが、スポーク動輪だったのできっと旅客機関車か大正時代までの機関車ではないのだろうかと推察してしまう。しかし、自分の中ではそれよりも人差し指の石像が巨大で驚いてしまった。
 さて、ここから博物館を折り返して多彩な保存車をまた見学していこう。
 後方に見えている転車台は、後に登場する…のだが博物館内を走行している遊覧汽車の(詳細は後に)が使用している転車台だ。この転車台は、上下で(手宮口と中央口で)構造が異なっているのが特徴だ。この手宮口の転車台に関しての特徴であると、少し量の低い下路式という構造が取られた転車台なのだそうだ。

 多彩な気動車の中に混じって、こんな車両も保存されている。
 日本全国の大地を血管のようにして、様々な大地を駆け抜けた貨車だ。北海道には、道内で活躍した貨車の中に混じって青函連絡船に混じって貨車航送された車両もあり、その行動範囲は非常に広いものがあった。
 撮影したアングルは、車掌車(設備としては有蓋合造車)、ホッパ車、無蓋車、石炭車、有蓋車の順番に続き最後にディーゼル機関車が続いている。全国の非電化路線ではこうした光景が日常的に繰り広げられていたのだろう。
 しかしながら、こうして後方から撮影してみると車輪の乾いた音やゆっくりと鉄路を踏み締めて走る音が聞こえる…そういった写真にも見えるのだから不思議だ。周囲は緑に囲まれているのに。

 まずは、ワフ29984。
 この車両は、車掌室と有蓋車を合造で設計した『有害合造車』である。
 自分としてはこの車両を何回か保存車や足抜きのダルマ状態で見た事がある…のだが、やはりこうして鉄路に居る姿は草臥れている状態でも絵になるというモノだろうか。
 北海道との関係で考えてみる…とすると、自分がかつて映像で見た北海道の古いSLの映像で、長い石炭列車のしんがりを務めているワフの姿を見た事がある。
 日本全国、かつては様々な貨車を束ねて走る中ではこうして車掌車の存在が必要不可欠な存在であった。こうして保存されている車両に立ち会い、立派な編成を構成している姿に立ち会えた事は非常に嬉しい。

 その車掌車・有蓋車の後方に連結されているのはホキ2226だ。
 この車両は、貨車としてホッパ車…として漏瑚状に小麦などの細かい飼料、肥料など。穀物類の輸送に貢献した貨車である。
 現在では車両が統一された規格になって列島を走行している貨物列車だが、こうして車両たちが多彩にカラフルな列車を構成している貨物編成を眺めていると昔の荷物背景やその土地の鉄道事情について考える事が出来る。
 自分自身、ホッパ車という存在ははじめて保存車で見かけたような。
 北海道といえば農産。そうした文化の反映や土地の尽力を鉄道で示す1つの展示…として、この貨車の存在は非常に大きなモノがあるかもしれない。

 その後方には、トラ57964。無蓋車だ。
 ワム…などの有蓋車と対を成す貨車として、全国を駆け抜け日本の鉄道貨物業界を支えた偉大な車両である。
 この展示環境では砂利を大量に積載しているようである…が、自分としては青果類や車両の部品類を輸送している姿も印象的な貨車だ。
 貨車としては原木などの輸送にも携わり、屋根のない構造を大いに発揮していたという。

 徐々に機関車寄りに見ていこう。セキ7342だ。
 この貨車は石炭を輸送する為に道内で使用した貨車で、黄色い注意書きの『道外禁止』の通りに北海道内での活躍を主にした貨車である。
 車両の構造として、黄色いラインの掃き出し口…のようなヶ所がガバッと開き、そこから石炭の排出が出来るようになっているのが特徴だ。
 自分としては、北海道の鉄道。北海道の貨車といえばこの車両…というくらいにはこの貨車の存在は大きかったのではないかと思う。
 D51などの蒸気機関車が必死になって、このセキなどの大量の石炭貨車に挑む姿。
「何両引いているんだ?」
と映像でも写真でも思ったその姿と雄大な四季の姿は、自分の中で憧れている北の大地の勇姿だった。そして、北海道の鉄道の中で最も最後の方まで『機関車』の存在が必要とされた存在ではなかったのではないかと思う。

 最も機関車寄りになって。
 ワム82506だ。この車両だけ、広島工場の検査表記が記されていたのだが、それに関しては貨車の広大な運用を知る上で…という設定で大丈夫だろうか。(考えすぎか?)
 この車両に関しては言うまでもない。
 昭和の時代、有蓋車として幅広い要素に対応する為に国鉄時代多く製造された貨車だ。
 その数、なんと26,000両近くにも及ぶ。
 その量から、国鉄時代晩年には貨車倉庫としての販売なども多かった事で現在も車輪やブレーキを抜いた『ダルマ倉庫』として現在もその姿を多く見るが、逆にこうして昭和を象徴する貨車として保存車も幾つか存在している貨車だ。

 貨車の先頭を務めている機関車だ。(先にこっちを紹介しろ)
 DE10-503である。車両としてはDE10形ディーゼル機関車の扱いになり、DD51形を入換・ローカル線区での運用に改良したディーゼル機関車となる。
 現在でも現役の会社や現役で活躍しているJR各社は多いが、それでも廃車は進行している…または運用回数の減少は避けられない状況になっており、こうして保存車が設定されているのは良い事だろう。
 このDE10-503は北海道を生え抜いたDE10形だ。活躍した区域も、鷲別、苫小牧、函館など…道内に限定される。
 また、500番台として蒸気暖房の発生装置を持たないのもこのDE10形の特徴だ。その構造として、貨物列車や構内の入換を中心に活躍した歴史を持っている。
 また、このディーゼル機関車を語る上で欠かせないのはその運転台の構造だろう。
 このディーゼル機関車、実は運転台が入換機としての使用を前提に(前向きに)製造された為、左右ジグザグに走行可能なように運転台が横向きに装着されているのだ。故に、本線に出して走行する際には首を横にもたげた状態で走行させねばならない。

 DE10側から観察。
 もうコレは立派な貨物列車の編成撮影状態…ではないでしょうか。どうでしょうか。
 あとは光線状態を気にすれば、細かく調整してみれば最高の状態に仕上がりそうなモノだが、ここまで圧巻だと撮影会でも開かれているような気分にさせられる。

 この場所には、入換機として。小型ローカル線の牽引機の主役として保存されているDE10形の土台になった…そして、動力近代化最後のピースと呼ばれた特別な機関車が保存されている。
 DD51形だ。鉄道が好きではない方。そして、鉄道に関心や造詣が無い方でもその形式名を聞いた事が一度はあるかもしれない。四国を除く全国で活躍し、北海道では石北本線の貨物列車や寝台特急の重連牽引で話題を攫った存在だ。
 この場所に保存されているのは、DD51-615。
 この機関車の最大の強みとして、旅客機・貨物機の役割を兼用する事が出来た事にあるだろう。液体式の動力伝達で車体の軽量化に努めた事が、この機関車の普及に大きく繋がった。
 このDD51-615は昭和49年に小樽築港機関区に転属し、そこから北海道での活躍を昭和61年歯医者になるまで続けた。
 ディーゼル機関車としては最多であろう649両が製造され、現在も四国以外の日本全国で活躍しているディーゼル機関車だ。

裏役者の存在

 この小樽市総合博物館には、少し特殊な役割に貢献した車両が保存されている。
 救援車…という脱線復旧や事故発生時に駆け付け、その際に必要な資材を確保している車両だ。全国の車両基地にはこうした救援車が時たま車両改造の上で配置されており、小樽市総合博物館ではそうした車両の保存公開もしている。
 救援車…というのは万一の役割でしか登場しない客車だったので、役割としては非常に薄い客車だったろう。しかし、こうした車両の存在で昔の鉄道が守られいざという時を司っていたという事を知るのには貴重な資料だ。
 写真のDD51-615に連結されている車両はそんな救援車のオエ61-309。
 マニ36という荷物用客車を種車としている救援車である。
 救援車という存在は、こうして1から製作される存在ではなく第二の生涯を生きる車両として改造し、そうした車両たちに特殊な役割を持たせたものが救援車として車両基地の番人を務めていた。
 このマニ36を改造したオエ61-309は作業員用に座席を装備しているのが特徴の救援車。救援車毎に、それぞれの特徴が持たされていたのだ。

 オエ61-309の後部に連結されている客車も、コレまた救援車だ。
 この車両は、スエ78-5。現代の時代には聞き慣れない曰く付きの保存車として、その姿を我々に見せてくれている。その経歴とは。『戦災復旧車両』だ。
 現代の生活においては、既に高度経済成長から既に何年も経過し一定の経済成長を見せたこの日本という国において、戦災復旧の証拠を見る事は数が少ないかもしれない。しかし、スエ78-5はその戦災から命からがら生き延びた車両なのだ。
 その車両を見ていこう。

 救援車の車内…というのは、脱線復旧や事故災害からの修復を目的にこうして機材類を中心に配置した車内になっている。
 このスエ78-5について。
 スエ78-5はなんと。戦時中に車体を焼失するという大火傷を負っており、その重傷から這い上がってきたのだ。
 車体復旧には資材不足・技術力の低下…という一面をカバーする為、車両としては写真を見ても分かるように不恰好な窓の姿になった。
 実はこの車両。かつて戦争の被害を受けるまでは2等寝台車のマロネ37形として活躍し、その影響で台車には3軸のTR71が採用されている。
 この不恰好な窓割りと乗り心地に配慮した3軸の台車…という正に戦争復旧車らしい姿を撮影したかったのだが、車両に遭遇した際はそうした境遇に気づいていなかった。
 こうした部分に関しても、訪問をやり直したいという気持ちで非常に一杯だ。(距離が距離でどうもならないのだが)

 奥にストーブを配した部屋がある。この部屋が車掌室…なのだが、(時代として使われた際)
 手前の部屋はマユニ78として使われた際の荷物室跡である。現在はこうして救援資材が多く並んでいるが、じっくり眺めると確かに部屋割りが荷物車のように感じられるのだから不思議だ。
 昭和22年。オハ77-20として戦災復旧から復活。その後は昭和28年の折にオハ78-20へ。そして、昭和29年にマユニ78-7となって最後は昭和40年。現在保存されている車両のナンバーであるスエ78-5を名乗った。
 北海道との縁…に関しては、この車両が廃車まで遠軽にその籍を置いていた事にあるだろうか。そうした事がきっと保存の縁に繋がっているのかもしれない。

 最後尾に連結…なのは、ソ34。操縦車という貨車で、この車両は事故復旧などの際にこれまた使われた車両である。
 車体には巨大なクレーンが取り付けられ、いかにも力持ちそうな身体をしているのが特徴だ。この車両だけ唯一貨車になっているのだが、救援車は客車の扱いになっている。
 今回は不運にもED76のPCB関係で車両をジックリ眺める事は出来なかったが次回はこうした面に関してもじっくり眺めてみたい。
 しかし、この車両本当に居たのだな。きかんしゃトーマスの世界では幾らでも登場し、ソドー島のやらかしを幾つも救ってきた名役者だったイメージがあるのに。(言ってはいけないだろう

秘匿な客車に始まって

 いきなりなんの画像が?と思った方、いるかもしれない。コレは客車の妻面なのだ。(分かるだろうそんな事は
 この客車は、マニ30-2012。役割を見てみると…日本銀行券輸送専用車とある。一体この車両は?

 引いてみよう。このマニ30形とはこんな客車になっているのである。
 マニ30形の車両輸送の目的は、『日本銀行券の輸送』だ。
「日本銀行券って一体…?」
と思った方々。普段から使用しているあの紙切れです。
 そう。この車両が輸送していたのは、大量の紙幣。つまりは『現金輸送車』という事になるのですが…この車両を見たくて小樽に向かったも同然。このマニ30-2012に関しては別記事を用意してそこに詳細を記していく事にします。お楽しみに。

 マニ30に連結されている客車は、スハ44-1だ。
 この客車は、JR北海道になっても北の大地で活躍し、主に国鉄時代は急行列車の客車として活躍をしていた客車だ。
 塗装に関しては青色…が美しく映えているが、自分にとってC62重連の急行『ていね』から続く歴史の中には、何かこう。茶色ではなく青いイメージが残る。
 そうした意味でも青い客車が保存されているのが何かと嬉しく感じる。もう少し、接近してみよう。

 車両のナンバー付近に到達した。
 スハ44-1のナンバーが刻まれ、そして稚内行きのサボが刻まれているのが判読できる。
 ネットでの先人の訪問を確認したが、この行き先は急行『利尻』を想定したもののようだ。
 本当ならこの先には客車たちの作り出す壮大な保存空間が広がっているのだがその光景は落ち着いてからという事になりそうだ。果たして、次回いつこの場所に戻ってくる事になるのだろう。

 オハフ33-364。戦後形の折れ妻面が特徴的な客車だ。この客車もまた、青色に塗装されている。
 博物館展示車両として。そして休憩室としての活用があるのか、この車両には室外機が装着されているのが特徴として伺える事が出来る。
 この先には、オハ36-125が連結されている。そして、その奥にはスユニ50-501とコレまたこの場所でしか見る事のできない客車が続いていたようなのだが、この区画は何度も記しているようにED76のPCB関係でその姿を見る事が出来なかった。自分が解体間際の車両の処遇を目当てに来ているから『こそ』仕方ないのだが、圧巻の昭和を想起する客車集いし昭和の情景に関しては見てみたかったと思う。

 奥に広がる場所に、オハ36-125とスユニ50-501は連結されている。
 マニ30形という鉄道の特殊車両…とりわけ、50系客車を参考に製造された荷物車両・郵便車両を見たからには見ておきたい車両であったが、すぐ奥にこうしてバリケードが張られているのではもうどうしようもない。
 そして、ED76の解体作業もかなり進行していた。作業員の話によるとかなり進行が早かったとの話。もう脅威のペースで屋根がスカスカになっていたものだから、その速度というか作業進行速度は想像以上だったのだろう。

 代わりに、C55-50の後部に連結されている旧型の客車を。
 この客車だけは撮影だけが可能な状況だったが、例に漏れず先のC55形蒸気機関車に関してはPCB処分のED76形のすぐ真横だったので当然に見学不可能。これもまた後悔に伏せる事になった。C55形といえば、北海道を代表する蒸気機関車の1つとして見学したかったのであるが難しい状況だったようだ。
 特に、今回の課題であるPCBという物質は絶対に飛散させてはならない部品である。そうした点からも致し方ないのだろう。
 この旧型客車の型式は、スハ45-14。スハ44-1同様に、急行用客車として道内では積極的に使用された車両形式である。

変わった場所で食事をしよう

 小樽市総合博物館…を少し退館して、昼食の時間にする。鉄道に関係する施設、鉄道に関係する観光名所に近い場所とあって、この場所の飲食店も列車の空き家を飲食店にしているようだ。
 早速入っていこう。
 ただ。入店前に感じた事だが、小樽市総合博物館の周辺にはこの列車カフェ以外に飲食系の店舗が存在していないのが難点である。偶にキッチンカーなどの入居などがあれば良いのだが、そうは行かないのだろうか。

 入店すると、こうした風景が広がる。昔の旧型客車に倣ったボックス式客車…ではなく、食堂車のように車内が改装されており原型を留めた状況ではなくなっていた。
「写真、良いですか?」
「どうぞ、是非…」
その声に応えて何枚か店内を撮影。
 店内を眺めていると、口にはしなかったが食堂車の中に乗車し紛れ込んだような感覚にさせられた。

 少し値段は張ったが、チキンカレーのセットを注文。
 辛くもなく、程よい味でご飯との相性も素晴らしいカレーであった。サラダもドレッシングの酸味に邪魔される事なく、野菜の旨味を感じられる。美味しいセットだった。
 ただ、感じられる事…記憶している事といえば飲食のフードメニューが少なかった事だろうか。こうしたフードメニューのバリエーションを要求しようとするならば、少し離れた場所で探した方が良いかもしれない。
 この店では他にも、フロートアイスやドーナツの販売も実施しているカフェの延長店舗のようなものであり、少々飲食店には足りないような気がした。
 ただ、総合博物館付近の飲食店。そして、その近くに構える列車カフェとしての存在感は非常に大きく今後も発展してほしいと願っている。
 車窓を見ながらの食事は非常に良いものだった。また機会があれば、行ってみたいものだ。

 列車に乗車しているのにも関わらず、どうしてあそこまでクオリティの高い食事が食べられるのだろう?と疑問になったので、車両を食事後にジックリ観察。
 すると、列車カフェ自体は旧型客車だけで構成されているのではなく車掌車と併結して構成されているのだと判明した。
 なるほど。車掌車がキッチンで客車が食堂の役割をしていたのか。そういう話で使えたのだな。
 そして、よく車掌車を見てみるとSECOMのマークが装着されているのも、第二の生涯を歩んでいる事が分かる写真だと思う。

 連結面を実際に発見した瞬間だ。
 恐らく、車掌車…というよりかはワフ車で客車と併結していたのだろう。この併結でキッチンとカフェ部の運営が成り立っており、店舗部分の拡張が成功しているのかもしれない。ワフ車にすれば、後方部の荷物室部分で一定の拡張が見込める。
 こういった事もありなんだな、なるほど
 と思わさせられる列車カフェであった。

 そして、台車の観察も個人的には容易な場所にあったので撮影しておく。
 GMのキットで知って以来のTR47台車だ。この台車を装備した客車が、現在でも大井川鐵道で現役…のようだが、他の客車と乗り心地が異なっているのが特徴のようである。実際に乗車してみたいが、今回のように停止している状態ではどうにも。
 と、列車カフェを観察し、写真を一定撮影し終えたところで総合博物館に戻る事にした。

北海道の鉄道博物館として

 北海道の鉄道博物館として、こうした車両の保存にも積極的なのが小樽市総合博物館だ。
 その車両が、『除雪車』である。
 除雪車…とはその名の通り。線路の雪を跳ね飛ばして、列車の安全運転を支える鉄道車両である。
 画像に掲載したのは、DD14形。写真の機関車は323号機だ。
 DD14形の特徴として、その巨大なウィングが挙げられるだろう。
 この巨大なウィングはロータリー除雪ヘッド。運転台を片側に寄せたエンドキャブ方式でこのロータリー除雪方式の採用に漕ぎ着け、強大な除雪用能力を手に入れた。
 実際にはウィングを突き出して雪の壁を作り出し、少し突き出した投雪口で雪を排出する。こうして雪を掻き分けて進軍し、冬の鉄道を守り続けてきた。
 しかし、現在ではこのDD14も数が限られた機関車となっており、その存在も本線上では青森にJR東日本で残るのみ…となっており、小樽がこうして保存車を残しているのは貴重な事である。
 この323号機は岩見沢を中心に活躍した機関車で、最終的には空知方面で活躍を終えた北海道生え抜きの機関車であった。

 こうして小柄な除雪車も展示されている。
 この機関車は、DD15-37。
 後に記すDD13との類似機関車でもあるのだが、その特徴。差異として挙げられるのは上部に設置されたライトだ。
 この機関車は基本的に…生涯の大半をラッセルヘッド装着のまま過ごしていたようだ。その事情にはディーゼル機関車の増備、そして貨物列車の減便と要因が大きく嵩んだ事にあるようだ。
 この機関車…除雪車の役割は単純に雪をかき集めてそれを線路横に跳ね飛ばすだけ。こうした姿を、除雪車・除雪用機関車と言われて浮かべる人は多いのではないだろうか。

 除雪車にはこうした種類…冬季の除雪の為だけに製造された車両も存在する。
 先ほどまで紹介した車両は、除雪設備、排雪・投雪設備を一時装着して夏季には解除。そうした上で貨物機や入換機としての使用が想定されていた。
 しかし、この小樽市総合博物館には除雪専用の『除雪車』の保存もされている。
 車両は、キ600形。この車両はロータリー除雪車である。
 アメリカから輸入された除雪車両であり、この車両は最後を北海道と青森の県境付近である青函方面で終えた。形式を何度か変更しているそうだが、この点に関しては不明だ。

 さて。除雪車にはこんな除雪車も存在している。
 一体、この車両はどういった除雪をし、どういった目的の設計の車両なのか?と思ってしまうだろうが…
 この車両は、除雪車の中に含まれる『マックレー車』という種類。この車両の機能は、ロータリー除雪車と相方のコンビを組んではじめて役割が成立するのだ。
 このマックレー車の役割は、雪を掻き寄せる事にある。マックレー車が掻き寄せた雪を、ロータリーの力で跳ね飛ばす。そうした方式で、国鉄時代には除雪の役割を担ってきたのだった。
 そして、このマックレー車・ロータリー除雪車は互いに準鉄道記念物への指定を受けている。北の大地の冬の守護神として、その栄誉と活躍が認められたのだ。

 除雪車には、こんなタイプの除雪車両も存在している。
 この除雪車両は、アメリカから輸入された『ジョルダン車』という除雪車両だ。車両形式は、キ752。
 ジョルダン車…のジョルダンは輸入会社のアメリカの会社に起因しており、車両の役割とはそこまで関係していない。
 車両の外見としては、多くの前照灯を装着したメカメカしい姿が特徴的に見える。そして、北国独特の旋回窓も存在している。
 このキ752は車両の除雪機能を(除雪時に使用する翼を)油圧式に改造したのが特徴だ。その為、少し車長が長く見えるというか大きな車体をしているのが特徴なのである。

 横にはもう1つ、ジョルダン式の除雪車両が存在している。
 この除雪車両の形式は、キ718。
 このキ718は巨大な空気タンクを保有しているのが特徴だ。この巨大な空気タンクに空気を溜め込み、除雪時の翼操作を実施する。
 後方部に映っている楕円状の物体がその空気タンクであり、車両の機能を示している。これが互いのジョルダン式の除雪車両の差異を表している点だろう。
 このキ718は当初、砂川駅で構内除雪に活躍。その後、赤平駅構内で除雪に活躍し休車を経て1年後に廃車の宣告を受けた。
 見た目としてはこの車両は少し3つ目の愛嬌ある外見をしており、なんとも言えないユーモラスな姿をしているのが特徴と言えるだろうか。個人的にはコチラの方が格好良いというかコチラに惹かれて撮影していたのだが、空気圧タンクに関しては全く無関心だったので撮影していなかった事を非常に悔やんでいる。

手宮機関庫に眠る目的

 この機関庫には、自分が狙っていた車両…が佇んでいる。1番左端に格納されている蒸気機関車、大勝号の存在が歴史的機庫の中で大きく光っているが、自分の中ではそうした車両の中で一際光り輝いている車両が存在している。
 そうした車両たちを含め、これから手宮機関庫の車両たちを見に行ってみよう。

 まずは序盤に。
 手宮の扇形機関庫にて主のように佇んでいる機関車、大勝号を紹介しよう。
 大勝号は赤いプレートの存在が垣間見えるように、鉄道記念物に指定されている北海道…いや。日本の鉄道にとって大事な存在なのである。
 大勝号は明治28年に製造された。生まれは北海道炭礦鉄道手宮工場。なぜ、この機関車を大勝号と呼んだのか。その由来は、時に日本が戦っていた戦争。日清戦争に勝利した事に由来している。こうした事情を見ると、当時の我が国の盛り上がりというか。鉄道に心血を注ぐ国民の情熱が伺える。
 それまでの蒸気機関車。とりわけ、本州で製造された帰還者や本州由来の技術で製造された機関車はイギリスの技術を投じての製造だった。
 しかし。大勝号ではアメリカの技術が投じられて製造されている。こうした部分も、北海道の鉄道がアメリカを軸にして。アメリカを手本にして発展していった証拠と言えるのではないだろうか。
 その証拠に。この大勝号には前面にアメリカの機関車が装着するカウキャッチャーを設けている。同じ頃には、別記事でも紹介予定の7100形蒸気機関車…のように平坦な炭水車などが設置。少し長めな機関車に仕上がったのだった。
 落成後は、7100形『義経』・『静』と同様に北海道の大地を共に走行した機関車であった。この蒸気機関車には、北海道の息吹っと近代化の心血が注がれているのである。

交渉人真下正義クモE400…っ!!!(黙れ)
 ではなく、この車両も北海道では大事な鉄道車両。しかし、この車両は本当に木造でと言うか木の簡素な造りが目立つ鉄道車両だった。
 この車両は、幌内鉄道開業時に用意された除雪車を再現したもの(のようだ)。
 昔からこの北海道で鉄道を敷き、雪国の1つとして極寒の大地としての決心を固める…として除雪車を用意していたのも凄いが、何よりも感じられるのは現代においてこの車両が走っていても違和感ないよな〜?という事。
 一応形式や車両のネームなどに関しては存在していない…ようで、展示車両のネームは『第一号除雪車』となっていた。

 手宮の歴史的な扇形車庫に、自分の目的とする車両が佇んでいた。その存在は、自分の中でキラキラと光っており大勝号・一号除雪車よりも撮影に熱が入っていた。
 こうした撮影写真をじっくりお見せ…するのと、またこうして撮影しこの車両を目的に小樽市総合博物館に向かっていたので、この車両に関しても別記事を作成の予定だ。
 さて。この車両は一体何者なのか。
 この車両は、レールバスだ。形式は、キハ03。キハ01形…から継続する国鉄時代から生産されたレールバスグループの耐寒仕様車両で、この車両は引退後旭川に収蔵されていた所を博物館保存の車両に選定され今に至る。
 そして、勘の良い方なら写真を見て分かるかもしれない。この車両は準鉄道記念物に指定されている。車両史を解読して行くと、決してその歴史は順風満帆ではなく決して華々しい歴史があったワケでもない。しかし、どうしてこの車両が国鉄内で重要な存在だったのか。そして。この車両は小さいながらも大きな足跡を残し、何故この準鉄道記念物にまでなれたのか。その歴史がわかるだろう。
 しかし、一説では絵本『きかんしゃやえもん』に登場する一郎と春子のモデルなのでは?とも言われており、その真意は自分の中で不明なままだ。

まだまだ続くのを…

 実は小樽市総合博物館の展示量というのは、決してこう1つの記事に収納してはならない…というか、施設の規模以上に壮大なものを持っているのだ。
 そういえば、PCB関係の業者さんと話をした時にも
「小樽築港の機関区にコイツら保存してたら今頃違ったのかもねぇ」
と話をしたのを思い出す。
 小樽築港機関区の開設後、手宮は分区となったのでその規模は少し小さいながらも、展示車両はなんとか収容されているのだ。
 とココで紹介できなかった車両をまた1つ。
 ディーゼル機関車、DD13-611だ。
 自分の中で、こうした小柄な凸形の機関車は愛知県の臨海地帯で何度か見かけた記憶がある。(会社は言わずともわかるだろうか)
 このDD13-611号機は、製造から廃車までの一環した生涯の殆どを小樽築港で過ごしていたという。その影響が、こうした保存に結節したのかもしれない。いずれにせよ、そうした縁でも順光線の中見れたのは非常に嬉しい事だ。
 このDD13形は、主に操車場の客車・貨車入換で活躍した機関車だったが、我が関西でも思い出として刻まれし機関車ではないだろうか。尼崎港線や和田岬線での旧型客車を牽引したその姿は、関西圏の旧型客車史を語る上で欠かせないハズだ。


 この記事の最後に紹介するのは、『チビロク』としてつい最近に長野方面で運用を終えていたDD16形機関車である。
 自分の中では、長野方面での活躍が見れなかった悔しさがあっただけにこうして北海道で遭遇したのは何か幸運のような気持ちがあった。
 このDD16-17は、少数生産で65機しか製造されなかったDD16のうちの1機。最初は弘前で活躍を開始した機関車だったが、後に北海道に渡った。
 そして、かつての現役時にはC62-3復活ニセコ号の為、C62の巨体を手宮線で牽引した話が有名だ。
 このDD16形機関車の特徴として、まず軸重12tの線路への入線を前提に設計されている事が挙げられるだろうか。この機関車はC12形などの軽量小型な蒸気機関車の置き換えを目的に製造したのだが、その数は先ほども記したように本当に希少な存在になってしまった。
 現在でも長野総合車両センターに退役したDD16形が保管されているが、こうして保存機としてDD16形を観察し眺める事が出来る場所は非常に貴重である。

 そして、かつてはDD16形のこちら側エンドには櫓のように組まれた設備があった。現在は取り外されているが、かつては小柄で可愛くもイカつく武骨な機関車だったのだろう。
 さて。次回の記事で小樽市総合博物館に関する記事はようやく幕を閉じそうである。本当に亀のような速度であるが、皆さんどうか最後までよろしくお願いいたします。

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