自己確認と表現の遺伝(散文)
低気圧のせいか、思考が霞がかって仕方がない。
その、鉱石に埋め込まれた本体を、削り出すようにして、この文章を書く。
自分は、ある時期から、たまにこのような思考の減耗、減衰が起きるようになった。
それに対抗するため、あらゆる手段を講じるのだが、このように、文章にして、我がの意識をある程度明分化する。
つまりは、これは精神的な自己治療であり、自己確認を行うプロセスのようなものである。
白紙に、自己を書き写す事で、『ああ、自分はこんな事を考えているのだ』と、客観的に覧じることで、逆に主観を取り戻すのだ。
思考の客観性、という意味で、歌詞を書くこと、文章を書くことはそれ自体がまさに自分を知る行為であり、ある意味で自己という迷宮に囚われ続ける人間という動物にとってのひとつの指標であり救いである事は間違いないと思う。
それは、絵画であるとか、表現、というものの持つ内省的な一面だろう。
それと逆に、受け手側の捉え方、ないし、受け手に向けたメッセージ、という意味では、この自己治療的な文章ほど、エゴイスティックなものもないと思う。
しかしながら、そのエゴイスティックな自己治療的行為によって産み出された作品が、また、別の人間である受け手にとっても治療的に働く事がある、という事が、表現、とみに内面に病理を抱えた人間ーいや、人間はみな病理を抱えているのだがーと、受け手の間にある、至福とも言える分かち合いだと言えるだろう。
だが、逆に、病理から産み出された表現がまた病理を産む、ないし、受け手の病理を深める、といった場合もあり、一概に、前向きなものであると言い切る事もできない。
その病理の伝染、というものがある意味での文化芸術の遺伝的な性質であると言う事もまた可能であり、常に人間は影響され、影響を与え、その中で、確固たる自己を洗練させてゆくものなのかもしれない。
いっさい他人から影響を受けない確固たる自己のみの人間というのは、これはマレであり、また、逆に言うと、他人から常に影響を受けながらも、完全にその他人には成り切れない、不快な程の自己同律性―これが、人間というもののどうしようもなく自分である部分なのかもしれない。
最終的に僕が言いたい事は、表現は常に自己と他者の意識に影響を与え続けるものであり、非常に重い責任が伴うと同時に、極めて有意義なものである、という事である。
とはいえ、そんなかしこまってやるもんでもねーわ、ってのも事実な訳で。
ラフに行きたいですね。
今日は朝から病院だったので、深い所へ行ってしまいました。
朝の精神病院の、まどろんだ中に根底の狂気があるこの空気、言うなれば、『まろやかな地獄』。
精神福祉に関わる方々には、敬服の思いですね。
出来れば来たくないが、服薬がある。
まあ、帰りにせいやでも食ってまた転職活動ですわ。
パソコン、ちょっと好きになってきたかも。(今更)
最近は、abelton(ビートメイク用のdawソフト)が楽しいです。
maschineのパッドでやってます。
スタンダードにupdateしたいなあ…
高いんだよな。
まあそんな感じです。
早くせいや食いてえ。
それでは、またお会いしましょう。
(✷‿✷)
梶本