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【創作大賞感想】大森さんちの家出/清繭子さん
清繭子さんの長編が、昨夜2話までUPされ、ホクホクと読み始めた。
そして、今朝最終話まで一気にアップされ、ウハウハしながら読了した。
清さんは、こちらの連載が大好きで拝読していた。
長編を拝読するのは今回が初。
ストーリーは……
言わん!!何も言わんぞ!!!
正直、「あらすじ必須」という創作大賞のルールに一石投じたいくらい、何も前情報なしに読みたかった。
読んでいただけると分かる通り、清さんの文章は「後を引く」。
説明臭さが一切ないので、一文読んで、その余白に「おっ?」となった後、次の文章を読んで「おお、なるほど」と腑に落ちる。
その繰り返しが心地良くて、するすると読み進めてしまう。
だからこそ、先の展開を知らないまま読みたかった、と思う。
初心者ながら小説を書いてみて思う。
余白というものは、とても勇気のいるものだと。
これで伝わるかなぁどうかなぁと不安になり、「もうそれ以上読解しようがない」と言う所まで言葉を重ねてしまう。
清さんの文章はその真逆を行く。
決定的な言葉は使わずに、それでも「こういうことだな」と、言葉と空気感で伝える文章。
最低限でありながら、その「最低限」の語彙の選び方にひとつもシステマティックな所がない。
全く真似しようのない言葉選びで、「空白」ではなく「余白」を作るような。
「清 繭子」さんという筆名は、清さんにぴったりだ、と思う。
清い、は言うまでもなく。
先述の余白、それが絹糸で編んだ薄い布の、繊維の狭間のようだと思った。
狭間があるからこそ、そこに空気を含んで暖かく、空気を通して涼やかで、しなやかに寄り添う。
自身に合う筆名を付けられる、これもまた作家の能力なのだな、と痛感した。
ストーリーには触れたくないが、思ったところを少し。
生活は、「意味」の塊であると思う。
食事も、掃除も、育児も、排せつも、時に生殖も意味を持つ。
家という空間に、意味が詰まっている。
その中に、創作という、本来的には何の意味もないものがポンと置かれる。
これはなかなかに、苦しい状況である、と思う。
私自身、リビングのど真ん中に推しの祭壇兼PCデスクを置いて、後ろで流れるゲゲゲの鬼太郎の音を聴きながら書いたりする。
ああ~独身時代のマンションで書きてぇ~。
食事なんてどうでもいいから書き続けてぇ~。
と、思いかけて、いかんいかん、と。
それは今の生活や、家族を否定することだ、と思い直す。
この甘やかな生活が、ゲゲゲの鬼太郎が私を包むからこそ、比較的精神が健康な状態で書き続けられるのだ、と思い直す。
さらに、創作が「意味」を持つとき。
これもまた苦しい。
例えば創作大賞のように、公募に出して「絶対てっぺん取ったるわ」とギラギラしているとき。
「こんなんじゃ中間選考も通らないんじゃないか」
「他の人が読んだら全然面白くないんじゃないか」
そんな思いに苛まれ、夜中の一時にスマホでnoteを開く。嗚呼不健康。
創作と生活と意味と、その間で右往左往する苦しさを、「大森さんちの家出」は掬い上げてくれるような、「そういうこともあるよ」と肯定してくれるような、そんな優しさを感じた。
とは言え「これは優しい話です!!!」というドデカPOPを付けるなんて無粋も、清さんはなさらない。
その家にしかない匂いと、ふわりとしたおかしみの中に、時折見え隠れする心の滓。
その塩梅が、楽しいことばかりじゃないこの日々の様で、すっと心に染み込む。
ふつうの人の、ふつうの暮らしと同じ浸透圧で物語が紡がれている。
noteで日々文章を書き、PCやスマホを閉じた後、ご飯を食べたりトイレに行ったり、風呂に入ったり子供をあやしたり、慌ただしく仕事に戻ったり。
そういう生活をしている、多くの人に染み込む物語なんじゃないだろうか。
嗚呼、こんな話書こうったって書けないよ、と、早朝から清々しく白旗を上げた。
そして、そのまま自分の作品を読み
「うはっ、レゴみたいでうるせぇー! 余白無くてゴッチゴチ!!」
と思わず笑ってしまった。
いいの、私レゴ好きだからさ……。
あ、レゴも読んでくれよな!!
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