【大阪城は五センチ 読書感想文】大人はひとところに留まらなければならないのか
「大阪城は五センチ」が投稿されてから、あの日の衝撃から、もう6カ月ですか。
創作大賞2024 朝日新聞出版賞受賞。それは、「大阪城は五センチ」が投稿され、一気に読んだあの朝の衝撃に比べれば、スマホの振動のようなもの――いや、嘘。ラーメン屋で味噌ホルモンラーメンが伸びてゆくのを眺めながら、嬉しさで背中を震わせて泣いた。素晴らしいものが真っ当に評価される、その事実は、人を勇気づけるものなのだと知った。
もう6ヶ月も、私はこの作品を咀嚼し続けている。
圧倒的な名作だと分かっているけれど、その素晴らしさを説明する言葉が見つからず、ずっと考えていた。そして、ようやく「私は何故こんなにも『大阪城は五センチ』に心動かされたのか」ということについて、一旦整理が出来たので、ここに記しておきたいと思う。
「女性用風俗」という舞台で、男女がフラットで居られる
ここ数年ずいぶん一般的なサービスになった「女性用風俗」について扱った創作物を、いくつか読んだことがある。描き方は様々だ。店のスタッフとして、顧客とスタッフを愛情をもって描いたもの。あるいは、女性用風俗を定期的に利用することを「転落」「墜落」のように描くもの。前者のように、実体験に基づく情報や知識がなければ、後者のようなイマジネーションの働かせ方をするのが、まぁ、ありがちなんだろうと思う。
「大阪城は五センチ」は、もちろんそうではない。
この描写。ひとこと「好き」と書くより、何倍も愛情の深さを感じ、そしてそれが、決して性欲が先行したものではないと伝わる。紅茶の淹れ方を愛おしく思うこころを、読者もまた愛おしく思う。ここ、冒頭から2000字も経っていないのでは? それなのに私は、もう顔も見えない(容姿の描写はもちろんあるが、そういうことではなく)由鶴と宇治を慈しみ始めている。
人を愛おしく思う人を描いた作品であると、冒頭の、しかも「事後」のシーンで感じることが出来る。これは、とてもシンプルなことだが、女性の読者に物凄く安心感を与える。
男性用風俗では、女性は性搾取される側として描かれがちだ。そして、反対の女性用風俗でも、客である女性が搾取される側だとされてしまったら。正直言って、もう、そういうものにはうんざりしている。いや、そういう描き方の作品にも存在意義があるのは分かっている。ただ、「大阪城は五センチ」は、まだセンセーショナルな題材である女性用風俗を扱いながら、この上なく優しい眼差しを描こうとしている。そういう作品が存在するだけで、心が救われる人が大勢いる、と思っている。
見出しで「男女がフラットで居られる」と書いたが、宇治と由鶴がフラットかというと、そうではない。でもそれは、キャストと顧客だからだ。レストランの客にソムリエがタメ口で話さないようなものだ。身長差ではなく、床の段差のような。二人の目線の段差が、物語が進むにつれ少しずつ変化するところも、男女であると同時に二人とも人間であることを感じられて嬉しい。
そう、基本的に私は、この作品の存在が「嬉しい」のだと思う。
このような作品が存在すること、そしてきちんと評価されること、近い将来に紙媒体として手元に届くこと――それが、嬉しい。
ひとところに留まることへの怖さ
「大阪城は五センチ」は、由鶴の宇治に対する恋愛感情と、「家」にまつわる、由鶴・多部ちゃん、そしてマカロニさんの、三人の女性の物語でもあると思う。三人の家に対する価値観の違いが興味深いのだが、それを「ひとところに留まること」に対する価値観の違いなのでは、と今日、思いついたのだった。
由鶴は、家の購入に限らず、貯金一千万円を使うことを
と表現している。これの(私が思う)面白い所は、家は礎を持った「不動産」であり、現金は使途が流動的な「動産」つまり由鶴の価値観と逆である、ということだ。
でも、由鶴の気持ちは分かる。動産を不動産に替えた瞬間、人はそこに根を張らなければいけなくなるから。家を構えれば、おいそれと引っ越せない。動産不動産の括り、というか財産という括りに入らないが、籍を入れれば気軽には抜けないし、子を産めば育て上げる義務がある。日本の一般的な価値観では、まだ、ある程度の年齢になれば「不動産的なもの」を持ち、ひとところに留まるべき、という考えがある。
一方、多部ちゃんは、ひとところに留まりたい、と願って生きてきて、それを叶えた側と言えるだろう。でも、それと引き換えに――というのが、なんともほろ苦い。
そしてマカロニさん。ざっくり言うと家のサブスク「ネイバーベース」に家主として登録している彼女は、「大人はひとところに留まるべき」という価値観から自由になっている人々を、不動産を持つ立場ながら日常的に受け入れ見送る立場だ。
家を買うか、買わないか。由鶴の心は揺れ、その道程の中で多部ちゃんやマカロニさん、さらにはネイバーベースの利用者という、家への価値観の異なる人々が登場し、大人はひとところに留まるべきか、ということを、多面的に見ることが出来る。
この、ひとところに留まるかどうかという点で揺れていた登場人物がもう一人いて、それが宇治、なのだと思う。彼は、家の購入ではなく、働くことについて。風俗のキャストという、自分でも「違うレーン」と認識していた仕事をやめ、会社に籍をおく、つまりはひとところに留まることになる。しかし、会社員としての場面で由鶴と遭遇し、彼の「違うレーン」は、自分が思う本来の人生に繋がるものだったと自覚する。社会の中で少し浮いて揺れていた時代を、自分のものとして肯定できるようになったのだ。(だよね? ここまで断言してきたけど急に不安になってきた……)
読者が由鶴に共感し、愛情をもって読み進めること、そして宇治が違うレーンと見なしていた時代を肯定すること。この二つが、「大人であっても、ひとところに留まることを恐れていい」という優しさを感じさせてくれる。どんな決断をするにしても、自分の居場所を定めることは怖い。私も、未だに家を購入したという事実から目を逸らし気味で、いずれ繰り上げ返済とか検討した方が良いんだろうと思いつつ、自動引き落としに身を委ねて数年経つ。居場所を定めたって、こうなんだ。
ラスト、多部ちゃんが「はぁ、くるしい」というシーンが私は大好きなのだが、思い切りよく家を買った多部ちゃんですら、客観視すると「はぁ、くるしい」なんだよな、という安心感を覚える。
ホテルの窓から見える大阪城は、雪にかすんでいた。大阪の象徴でありつつ、それは本来の役割を終えた、空の建物でもある。己の「大阪城」を手にしたら、もう動くことはできない。その代わり、空っぽだった家に、少しずつ物を、役割を、生活を詰め込むことが出来る。多部ちゃんはマカロニさんの絵を迎え入れ、由鶴は七輪を買った。仮初の家でテイクアウトして食べていたホルモンを、自分の大阪城で、焼いて食べるだろうか。ひとところに留まるのは怖い。だけど、悪いことばかりでもない。そんな希望を、とても近い目線で教えてくれるような、印象的な買い物だと思う。
書きたいこと書き尽くしたかな? と思って視線を上げると、入居当初は新婚旅行中蚤の市で買った絵を飾って悦に入っていたのに、今や子どもの数年分の「おたんじょうびおめでとう」カードが所狭しと並んでいる。あえてシンプルにしたインテリアのお陰で、シンプルじゃない物がよく目立つ。生活は、思う通りには行かない。でも、招き入れたものたちが、この城を空虚なものにはしない。
六十五歳くらいになったら、この家を売って、中心市街地に住んで、夫と二人、歩いて飲みに行きたい――そんな夢もあるが、ひとところに留まることをやめる、というのもまた怖いことだ。根を張れば、その地の養分を得ることが出来るが、日陰になっても動けない。どうあっても正解は無いけれど、その正解のなさを怖がれることが、ひとつの希望だと、そう感じている。それは紛れもなく、「大阪城は五センチ」から得た希望なのだ。