見出し画像

中東の歴史かんたんなまとめXII アラブの春

中東史のつづきです。今回は「アラブの春」の原因と結果について見ていく。他の「革命」と同様に、最初は民主化に心躍ったが、最後には見るも無惨な結果となる。しかし、やらない改革よりやった改革で、流石に今まで全く日の目を見なかった人達への注目と理解が加速したのではないだろうか。こちらに書くことは自分の勉強のまとめであり、備忘録である。とくに難しいことは書かないが、英語で勉強しているので、視点が欧米寄りになっている可能性はあるが、勿論アラブに住んでいるし、アラブ人寄りの考えも合わせ、できるだけニュートラルな視点で書きたいと思う。サマリーを数分程度でまとめることで自分の勉強にもなり、読んで頂けた方に分かりやすく伝われば嬉しい。



アラブの春はインターネット時代の新しい蜂起スタイル

2011年に勃発し、現在も続いている運動であるが、当初の抗議運動は、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアに助けられ人々に伝えることが出来た。汚職や高失業率、貧困、人権侵害に対する憤りなどである。インターネット時代の蜂起がどのように人々に受け入れられ、中東の不安定な抑圧的政権がどのように分散型ネットワークの影響を受けやすくなっているのか、また、これらの国々では、ある意味、蜂起以降、その前以上に上層部は権力を握ることになった。 


革命が意図した通りに終わることはめったにない

革命は肯定的なニュアンスがあり、聞こえはいいが、意図したとおりに終わることはめったにない。 そして、多くの状況において、当初よりも多くの害を引き起こして終わることがある。

2011年のニュースでは抗議デモで埋め尽くされた

2011年腐敗した政府に対して行進するアラブの群衆の映像で埋め尽くされた。 西アフリカのモーリタニアからイラクまで中東全域で、ホスニ・ムバラクのように何十年も権力を維持してきた中高年の独裁者に対する抗議デモが激化した。 国家財政から何十億ドルもの資金を私的な銀行口座に移し、彼らの家族や取り巻きだけを裕福にし、民主的改革の可能性を封じ、民主主義や市民制度を完全に疎外したりした。 「アラブの春」の後、4つの政権が倒され、6つの国で主要な政府改革が行われた。

「アラブの春」の発端となった出来事とは

2010年12月7日、チュニジアの26歳の野菜売りから始まった。 モハメッドは政府高官と口論になった後自分自身に火をつけ焼け死んだ。 理由は彼が野菜や果物を売ることを許可されるかどうかをめぐる口論だった。 なぜ、そんな些細なことでこんなことをしたのか。 彼は地元の役人から侮辱的な扱いを受け、風土病のような腐敗と縁故主義に完全に無力だと感じ、何をやっても打破できないと思ったシステムに対して思い切った抵抗をすることにした。 この体制は、チュニジアのベン・アリ大統領によって維持されていた。ベン・アリ大統領は、北アフリカに住む大多数のチュニジア人が貧困ラインを超えられずに苦しんでいる中、723年間ありあまる財産を所有していた。

彼の死は瞬く間にセンセーションを巻き起こし、同情的な市民は彼の死後、ツイッターで彼のメッセージをつぶやきながら暴動を起こし、市民同士のコミュニケーションを可能にした。 新聞や電話の時代には不可能だったことだ。 やがて何千人もの人々が集まり、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアを通じて情報を拡散し、ベン・アリを侮辱する画像を交換し合った。 1週間も経たないうちに、騒乱はエスカレートし、暴動を止めようと2000人もの警察が出動するまでになった。

抗議デモ最初は大成功


2011年1月14日までにベン・アリはサウジアラビアに逃亡した。 この抗議デモの大成功は伝染し、他の中東諸国に急速に広がった。慢性的な貧困や教育を受けた人々にはほとんど機会が与えられず、政治的にコネのある人々の間にのみ富が留まる縁故主義が定着し、民主主義の一般的な欠如や、行き当たりばったりで適用される重大な人権侵害とともに、今後数ヶ月の間に本当に一貫した法の支配が行われることはなく、エジプトのホスニ・ムバラク大統領は辞任することになる。 リビアの指導者モアンマル・ガダフィは8月23日に打倒され、イエメンのアリ・アブドゥッラー・サーレハ大統領は2012年2月27日にヨルダンで正式に退陣した。 バーレーンとレバノンは、市民を鎮めるために重大な改革を約束した。 サウジアラビアは2015年までに女性に投票権を与え、自治体選挙に参加させると発表した。 しかし、アラブの春の完全な結果はまだ英国にある。 エジプトは独裁者を放逐したかもしれないが、2012年の議会選挙ではイスラム主義者が多数を占めた。 

ムスリム同胞団モハード・オルシ大統領

ホスニ・ムバラクによって任命された指導者を含む軍事組織によって解任された。 そのため多くの人々は、エジプトは基本的に軍事独裁政権に支配された状態に戻っていると考えている。 そして、蜂起以前と同じ社会問題の多くが残っている。

アラブの春後の中東は以前よりずっと悪くなっているのではないか

バッシャール・アル・アサドが倒され、より自由で開かれた民主的なシリアがやってくると期待していたが、アサド政権と反体制派との間で内戦が何年も続いた。

シリア、イラク、トルコ、の状況

シリアとイラクの大部分を占領しているグループは、シリアを大規模に不安定化させ、何十万人ものシリア人が難民として国外に逃れている。 トルコでは、難民キャンプで暮らさなければならないイスタンブールの路上生活者やシリア国境付近の多くの人々が、国内に殺到する物乞いとの大きな問題を抱えている。他の国を見てみると、例えばリビアでは、ムアンマル・ガダフィが排除された後も、民兵が権力をめぐっていがみ合い、国は本質的に崩壊した。  その結果、アルカイダはアフリカへの海外援助を拡大し、マリを大規模に不安定化させた。 だから、革命という言葉は、特に慣れ親しんだアメリカ人の間ではポジティブな響きを持つ。

フランス革命が代表的な失敗例である


革命戦争 革命が良い結果をもたらすことはめったにない。 ロベスピエール率いるフランス革命が暴力的な段階に入り、革命に狂信的な献身を示さない人物を斬首したときのことを考えればわかるだろう。 このような展開は、悲しいかな、アメリカ独立戦争のような展開よりも一般的である。 派閥争いやいがみ合い、社会不安や暴力、そして不確実性が増す。 だから中東の多くの国々にとって、悲しいことにアラブの春が始まる前よりも悪くなっているように見える。 しかし、1つだけポジティブに考えられるのは、今はよりオープンで透明なコミュニケーションの時代であり、社会的地位の低い人々がかつてのように疎外されることはないということだ。もし果物屋が火を放つことが、ウイルスに感染するようなムーブメントを引き起こすことができるのであれば、中東の指導者たちは、かつてのように自分たちの支配に安心感を持つことはできないということだ。 

まとめ


アラブの春は当初何か明るい未来が見えた気がしたが、実際はより悪くなっている現状があるらしい。しかし、透明なコミュニケーションの時代に入ったことは間違いないから、未来は決して真っ暗ではないと思う。私の住んでいるアラブ首長国連邦は相変わらず王家一族が贅沢三昧だ。しかしローカルの市民に対しては潤沢な補助金を与えているらしい。しかし地元民はわずか5%で、あとの95%が移民で彼らには下々の労働をさせている。縁故主義、アラブだけを優遇だが、取り敢えずその移民達(インド、パキスタン、フィリピン、モンゴル、東南アジアなど)が働く姿を見ていると、楽しそうだし、賃金も良さそうだから(一部ドバイなど悪質な業者以外は)、この国に関しては、いくらシェイクが贅沢三昧でも問題はなさそうだ。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集