空飛ぶタイヤとサンクチュアリ聖域
「空飛ぶタイヤ」を一日で読み通した。弱小企業と巨大企業の戦いを描いた力のある作品だ。大手企業に働く者たちの慢心、出世欲、エゴ、欺瞞、ちっぽけな虚栄心。対する弱小企業の社長が、会社と従業員を護ろうと体を張って、自分の足と頭を使って体当たりしていく。
ただ半分以上読んだところでふっと気がついた。ここに登場する何十人もの男たちは皆、銀行で働く男、大手大手会社に働くエリート、中小企業であくせくする男たち。けれどもそこには女の影は無い。いや、主人公の妻と沢田という男の妻のことが一瞬触れられているが、そこにはその人物たちの描写がほとんどない。表情、服装、信条、生き方、などがまったく反映されていない。
そういえば登場人物の中に女王蜂と呼ばれる女性がいて、その人物はヒステリックで自己中心的、社会を顧みないひどいオバタリアンとして描かれている。キャラクターが演出されているのはその彼女だけで、それ以外に女性の存在感はどこへいってしまったのだろう。
上下700ページを超える長編で、こんなに様々な男たちの意思や涙や信念や、「人はどう生きるべきか」を問いながら、なぜそこに女性の意思や生き方が反映されていないのか不思議に思う。映画化された中では女性の新聞記者も、原作では男性だ。
ここでふと思ったのは「七人の侍」。その作品が書かれた時代であれば男は男としての武士のエートスの確たるものがあって、男の世界と言うもの、その美しさに人は魅せられた。
けれども現在のような社会になって経済界のドラマを描きながら、女性の姿が全く現れないというのはなんとも不思議なことだ。ただ小説を読んだだけで映画の方は見ていないので、映画だとまた別の構成になっているかもしれない。
それに対して、 Netflixシリーズ「サンクチュアリ -聖域-」はどうか。
世界的な知名度を誇るニッポンの相撲の裏方を描いたドラマだ。1500年以上の歴史ある日本の伝統文化として、また神事として、神秘のベールに包まれている大相撲。
その勝負が行われる土俵は、まさに”サンクチュアリ”(聖域)”。これはまさしく、男の世界であり、土俵へは女人が禁止されている。
それにもかかわらず、このドラマには帰国子女で日本の慣習に迎合しない女性報道記者が登場し、相撲の取材を通じて、彼女が仕事に注ぐ情熱がその質を変え、ボリュームを増し、自分と仕事の関係を見直す成長の過程が描かれている。
相撲は男の世界だ。過去にさまざまな愁いを背負った無軌道な若者たちが、金・女・名声、その全てが土俵に埋まっていると信じて、力士へと上り詰めていく。そんな男の物語と交錯して、彼女の存在は、ストーリーをより立体的にしている。
ちなみに”サンクチュアリ”(聖域)はアメリカのNetFlixでも配信されていて大反響を呼んでいる。普段はよくわからない相撲の裏方の世界が描かれていて、そこに登場する人物たちの人情や、汗、涙といったものが、日本というこの外国人から見て不思議で魅力的でたまらないようだ。
ここまできたら、メイキング映像で映画を作ってほしい。
こちらも立派な映画になりそうだ。
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