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Black and Tan Fantasy

「黒と褐色の幻想/ブラック・アンド・タン・ファンタジー Black and Tan Fantasy」は1927年にデューク・エリントン (Duke Ellington)とバッバー・ミレイ (Bubber Miley)が書いたジャズ・ナンバー。

すでに紹介した通り、ブラック・アンド・タン Black and Tanとは、黒人と白人が入り混じるという意味で、まさに人種差別がない状態を指す(こちら)。これに鑑みると、もしかすると「黒と褐色の幻想」とは、まさに黒人が白人が社会において一緒の地位を得るという幻想を描いたのかもしれない。また「黒と褐色の幻想」は、1929年に『ブラック・アンド・タン Black and Tan』というオールブラック(すべての役者が黒人)の短編映画でも使用された。

ブラック・アンド・タンという幻想

映画『ブラック・アンド・タン』はニューヨークのハーレムでしのぎを削る黒人たちの物語。ちょっと飛躍のあるプロットになっているのだが、描かれている内容は極めて現実的な映画である。デューク・エリントンが主演しており、この曲が完成するまでが描かれる。パブリック・ドメインになっているので、画像をまじえながらあらすじを書いたあと、ブラック・アンド・タンがどう描かれたのかを考えてみたい。

あらすじ

最初のシーン
エリントンは自宅で「黒と褐色の幻想」を作曲している(1)。そこへ2人のゴロツキがやってきてピアノを取られそうなる(2)。そこへちょうどエリントンの連れ合い役のフレディ・ワシントンが、エリントンが演奏するナイトクラブでのダンサーの仕事に就いたことを報告しにくる。彼女の美貌と機転によりピアノが取られることはなかったのだが、エリントンは彼女の身体は病魔に蝕まれているのだからダンサーの仕事はできないと素直に喜べない(3)。

ここまでのシーンは、主に(a)エリントンが人気のミュージシャンであること、そして(b)ワシントンが美しいが儚い存在として描かれる。

演奏のシーン
場面が急に変わる。ジャズ・クラブでエリントン楽団が演奏をしている(4)。曲が終わると、ワシントンが紹介される。この時、彼女が病気であることは、舞台袖での辛そうなふるまい(5)やカメラワーク(6)、司会者によって伝えられる。彼女は堪能的で激しいダンスをするが、演奏が終わると同時にワシントンは倒れる(7)。ショーが終わり幕が降りる。

(7)はガラス製の床に身体が反射している。

ベッドサイド・シーン
フレディ・ワシントンがベッドに横たわっている。その周りでエリントン楽団が演奏をしている (8)。このとき、演奏されるのが「黒と褐色の幻想」。このシーンにおいては、フレディ・ワシントンの死が表現される。第一に、暗い部屋でライトがエリントンを中心に照らし、楽団の姿が黒い影としてバックに投影される。第二に、このときクワィアがスピリチュアルを彷彿されるメロディを歌う。こうして彼女の死にゆく様が演出される。曲の終盤にさしかかると、フレディ・ワシントンは何かを叫ぶのだが、このとき音声は切られ無音のまま、彼女は死を迎える(9)。最後にエリントンの顔だけがフォーカスされるが、徐々に焦点がはずされ最後は画面が暗転して映画が終わる (10-11)。

ブラック・アンド・タンはどう描かれたのか

フレディ・ワシントンはさまざまな二項対立が観察することができ、これによって「ブラック・アンド・タン」を象徴するような役柄として演出されている。おおまかに以下の3つを挙げることができる。

  • 黒人の血もヨーロッパの血も引いている。

  • 彼女は黒人英語Black American Vernacularではなく、アメリカ標準発音General Pronunciationで話している。

  • 彼女の「健気さ華やかさ」と「死にゆく儚さ」が対になっており、その対比は生と死を表現している。

こうした「ブラック・アンド・タン」の象徴が病気によって死を迎えることは、まさに黒人と白人が社会において一緒の地位を得るというブラック・アンド・タンが、まったくの幻想であったことが映画において示唆されているように見える。

とくに最後のカットでエリントンという当時の黒人にとってのヒーローの顔の焦点がぼやかされることは、ワシントンの死を描く以上のことを行なっている。それはまさに映画を鑑賞している観客に対し「現実の世界」——すなわち鑑賞している黒人の観客が住まう世界——に引き戻すことをしている。なぜなら、そうした焦点をぼかすことは、観客に対し、観客が考える隙を与えるからだ。であるならば、ワシントンの死によって表現されたブラック・アンド・タンの不可能性は映画のなかのできごとではなく、現実においてもまさにブラック・アンド・タンが幻想であることが、こうしたシーンを通じて描かれているのだ。

録音

Duke Ellington Orchestra (NY, November 3, 1927)
Duke Ellington (Piano); Bubber Miley (Cornet); Louis Metcalf (Cornet); Harry Carney (Saxophone); Otto Hardwick (Saxophone); Rudy Jackson (Saxophone); Joseph Nanton (Trombone); Fred Guy (Banjo); Wellman Braud (Bass); Sonny Greer (Drums); 

The Lincoln Center Jazz Orchestra With Wynton Marsalis (NYC August 25-27, 1998)
Ted Nash (Alto Saxophone); Wessell Anderson (Alto Saxophone); Joe Temperley (Baritone Saxophone); Rodney Whitaker (Bass); Herlin Riley (Drums); Cyrus Chestnut (Piano);  Walter Blanding (Tenor Saxophone); Victor Goines (Tenor Saxophone); Ronald Westray (Trombone); Wayne Goodman (Trombone);  Wycliffe Gordon (Trombone); Marcus Printup (Trumpet); Ryan Kisor (Trumpet); Seneca Black (Trumpet); Wynton Marsalis (Trumpet)
じつはウィントン・マルサリスはほとんど聴かなかった。マルサリスのリーダー作品はニューオーリンズ・ジャズを展開しているのに座って鑑賞するような芸術作品としてのジャズになっているからだ。つまり、本来ミュージシャンと観客の距離が極めて近いニューオーリンズのジャズなのに提示の仕方がまるでモダン・ジャズ以降の芸術性に特化したジャズを聴かせられているように思っていた。だからマルサリスのリーダー作品で「これぞニューオーリンズ!」という感じに提示されてもあまり積極的に同意することができなかった。このアルバムはニューオーリンズ・ジャズではないが、会員制の社交クラブでなされた録音だ。せっかく買ったしあまり期待しないで聴いたのだがこのBlack and Tan Fantasyにはとても感動し、いまでは好きなアルバムになった。でもここで聴けるマルサリスのソロは息が詰まるほど素晴らしい。泣ける名演。

Craig Klein (New Orleans 2004)
Craig Klein (Trombone); Bruce Brackman (Clarinet); Gerald French (Drums); Kerry Lewis (Bass); Paul Longstreth (Piano)
他方でこちらはニューオーリンズ・ジャズで「ブラック・アンド・タン・ファンタジー」が録音されている。クレイグ・クラインの録音。こちらもとても感動的。

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