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愛と憎しみのフェッラーラ

愛と憎しみのフェッラーラ。

これはイタリア文学者でウンベルト・エーコ『薔薇の名前』の訳者でもある河島英昭(1933-2018年)のエッセイのタイトルです。このエッセイに惹かれた私は、夫を誘い、秋の終わりにエッセイの舞台である北イタリアの街・フェッラーラを訪れました。

河島英昭はこの『愛と憎しみのフェッラーラ』というエッセイにおいて、この街のゲットーに触れ、次いで作家として名を馳せたジョルジョ・バッサーニ(1916-2000年)という代々フェッラーラに住み続けてきたユダヤ人作家とその短編小説『43年のある夜』を取り上げています。

43年というのは1943年のこと。この年の11月14日から15日にかけての夜、この静かな街ではある残酷な事件が起きました。
1943年7月、ムッソリーニが失脚しイタリアの20年にもわたるファシスト党支配は崩壊します。それに伴い、フェッラーラはファシスト党の支配から開放されます。しかし、それも束の間、9月になるとドイツ軍が現れ11月になるとユダヤ人全員に対する逮捕と財産の掠奪が始まったのです。そして11月15日朝、フェッラーラ城東側にある内濠に沿った歩道に横たわっている11人の「身元不明死体」が発見されました。雨が降っていたそうです。

河島英昭がエッセイの中で取り上げたバッサーニの『43年のある夜』はこの事件を元に書かれた短編小説です。

私がフェッラーラに到着したのは、11月14日の夕方でした。この日を意図したのではなく、大学のリーディング・ウィークを利用して旅することにしたら、偶然にこの日になったのです。
「事件」から81年後の11月14日は、アルプスの北側からやって来た私が目を開けられないほど眩しい晩秋の光がフェッラーラに満ちていました。宿泊したホテルはフェッラーラ城のすぐ南側に位置していました。部屋のバルコニーに立ち、正面に屹立するエステ家の城を眺めながら、81年前のあの日、もしこの建物に誰がいたとしたら、その人物は銃声を聞いたのではないか、思わずそう考えてしまいました。

翌日の朝、ホテルを出て旧市街へ向かうために城の東南の角に出ると、昨夕散歩に出た時にはなかった花輪がひっそりと飾られていることに気付きました。その横には銃殺された人々の名前を記したプレート。
フェッラーラには3泊し、城の東側の道は何度も行ったり来たりしましたが、濠に沿った側の道を、とうとう私は1度も歩くことができませんでした。

フェッラーラを離れ、フィレンツェへ向かう日の朝、街は深い霧に覆われました。乗車予定の列車の時間は昼近くだったので、朝食を食べた後、私は夫をホテルの部屋に残し、1人で慌ただしくRolleiflexを手に外へ出ました。向かう先はフェッラーラ城東側です。2001年秋、河島英昭はフェッラーラ城の「南東隅の塔に嵌められた大時計を斜めに見上げながら、広い車道を挟んだ柱廊の下」に佇みます。同じ場所に私も1人で立ってみたかったのです。

彼が腰掛けたであろう柱廊の間に置かれたバールのテーブルには、見知らぬ男性が腰を下ろし、ボンヤリと濠の方向に目を投げかけていました。河島英昭の残像を見たような気がしました。
このバールの数件先には、バッサーニの短編小説の主人公が経営していたとされる薬局も未だにあります。物語の中ではこの人物が薬局の上に住んでいると設定されていました。窓はいくつも並んでいます。どの部屋だろうと上を見上げて、しばらく行ったり来たりしていた私は、さぞかし奇妙なガイコクジンに見えたに違いありません。

フェッラーラを離れフィレンツェへ向かう日は日曜日でした。そして、日曜日の朝であるにもかかわらず、徒歩で、自転車で、城の横に横たわる道を旧市街の方向へ向かう人たちが一人、また一人と通過していきます。その姿を見ながら河島英昭がこんなことを書いていたことを思い出しました。

日本でバッサーニの小説『フェッラーラ物語五話』(エイナウディ社、1956年)を読んだとき、その第五話に収められた「43年のある夜」の書き出しの部分から強烈な印象を受けた […] もしも居城の東側にある内濠に沿った歩道を往き来する者がいれば、それはフェッラーラの人間ではないであろう。いや、フェッラーラの歴史の惨劇を知らない人間であろう。バッサーニはそう書いていた。私にとっては、無知を戒める文章のひとつであった。

河島英昭「愛と憎しみのフェッラーラ」(『イタリア・ユダヤ人の風景』より)

バッサーニの小説が刊行されてから約70年、河島英昭がフェッラーラを訪れてから20年以上の時を経た今、私は今、彼らが眺めたのと同じ場所、おそらく当時と殆ど変わっていないであろう場所を見つめている。そう思うと不思議な気持ちになります。しかし、時間は確実に流れているのです。

ドイツ語に「Zeitgeschichte」という言葉があります。「同時代史」とでも訳せば良いでしょうか。その定義は、その時代を共有する人々が存命である時代の歴史であると講義で聞きました。
フェッラーラ城東側にある内濠に沿った歩道を、人々が何の衒いもなく歩いている姿を見た時、彼らが濠に立てかけられた花輪に目をやることもなく通り過ぎてゆくのを見た時、1943年の夜の出来事は「同時代史」という枠組みから離れ、より古いカテゴリーに属する歴史となったのだと感じました。

濃い霧が音もなく流れる朝でした。


引用・参考文献
河島英昭『イタリア・ユダヤ人の風景』岩波書店, 2004年
Giorgio Bassani, Within the Walls, Penguin Books, c2016