「社会的共通資本を考える」後記 シリーズ1第1回
第1回「『自動車の社会的費用』を読む」後記
社会的共通資本を考える シリーズについて
京都大学社会的共通資本と未来寄附研究部門では、宇沢弘文が提唱した社会的共通資本を研究し、社会的共通資本の実装可能性を検討しています。2023年2月~「社会的共通資本を考える シリーズ」と題して、社会的共通資本をより深く理解し、実践につなげるために、宇沢弘文の著書や社会的共通資本に関連する本を様々な角度から読み込んでいくイベントを開始しました。
シリーズ第一弾は『自動車の社会的費用』岩波新書が題材です。本書は、宇沢弘文の初の日本語の単著です。人の命といった大切なものをお金に換算しない経済学のはじまりといっても過言ではないこの社会的共通資本の考えの基盤となったこの本を読みました。
第1回は『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』などの著者であるジャーナリスト・佐々木実さんをお迎えしました。佐々木さんは、宇沢弘文の伝記である『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』を上梓しました。宇沢弘文の思考のエッセンスを汲み取った佐々木さんをゲストにお迎えして、『自動車の社会的費用』を読んでいきました。
第1回「『自動車の社会的費用』を読む」後記内容(記:第一回ゲスト佐々木実さん)
『自動車の社会的費用』(岩波新書)は作品そのものが多義的である。少なくとも私にとって、読むたびに異なる想念を引き出される、不思議な書物である。
教科書風に言えば、「宇沢弘文の転機となった作品」であるこの本の担当編集者だった大塚信一(元岩波書店社長)は、私のインタビューでこんな証言をしている。
「『自動車の社会的費用』は、宇沢さんの宣言だったとおもうんですよ。新古典派経済学の枠組みを離脱するぞ。そう宣言したのだとおもう。いまから考えると、この本がどう受けとめられるのか、宇沢さんはものすごくナーバスになっていたようにおもいますね」
たしかに、最先端の数理経済学を牽引してきた「世界のウザワ」はこの作品を著したことで変貌した。みずからも多大な貢献をしたはずの主流派の経済理論を激しく批判し、「社会的共通資本」という概念で独自の経済学を構築していくことになる。長い道のりの第一歩が『自動車の社会的費用』だった。
冒頭で作品の多義性を指摘したけれども、その最大の理由は、宇沢の“生きざま”をそのまま映した書でもあったからだとおもう。京都大学人と社会の未来研究院社会的共通資本と未来寄附研究部門が主催する「『自動車の社会的費用』を読む」ではそのことを語りたかったけれど舌足らずに終わったので、この場を借りて少し補足させていただきたい。
宇沢は、「自動車」に焦点をあてることによって現代資本主義の特徴を鮮やかに浮かび上がらせ、返す刀で主流派の経済理論の決定的な欠陥を明らかにした。試みが成功したことは出版からほぼ半世紀を経た現在も『自動車の社会的費用』が読み継がれていることが証明しているだろう。だがなぜ、「自動車」でなければならなかったのだろう?
自動車が20世紀文明を象徴する工業製品であることは周知のことだし、『自動車の社会的費用』でも「現代文明の象徴としての自動車」の項で解説されている。私が知りたいのはその種の話ではなく、既存の経済理論を否定し、「社会的共通資本の経済学」を構築するにあたり、宇沢が「自動車」に着目したきっかけ、宇沢の個人的な動機である。
『自動車の社会的費用』出版の4年ほど前、宇沢は『エコノミスト』(1970年9月8日号)に「自動車政策は間違っている」を発表している。この論考で宇沢は、20世紀の自動車産業を牽引したアメリカについて語っている。
〈アメリカの場合、自動車は自然なかたちで発展してきた。しかも、アメリカの社会の底に流れている西欧的な個人主義、そういう考え方とも調和した輸送あるいは生活手段であった。また、アメリカではいろいろな財とかサービスをできるだけ私的なものにして、公共的なものを少なくしようとする傾向もある。このようなさまざまな面から、自動車はアメリカの風土的、社会的、文化的な面からの条件に適合した交通手段であるといえる。
しかし、自動車がアメリカの生活のもっとも重要なものになってくるにつれて、西欧的な個人主義とか効率主義といったものが制止されないかたちになってきたということも見逃せない。このようなアメリカの社会的あるいは文化的な特性の延長線上に、たとえばベトナムの問題、あるいは黒人問題、都市問題があるともいえよう。〉
「ベトナムの問題」が唐突に出てくるが、これはベトナム戦争を指す。『自動車の社会的費用』で宇沢は変貌したけれども、そもそも豹変した直接の契機はアメリカから日本に帰国したことにあった。そして、帰国を促したのはベトナム戦争だった。シカゴ大学経済学部の看板教授だった宇沢は、ベトナム反戦運動に関わってもいた。
帰国して間もない時期の宇沢が、自動車とアメリカ文明の深い関係を指摘したうえで、ベトナム戦争とのつながりにまで言及している。さきほど引用した文章に続けて、宇沢はこんな話を紹介していた。
「いま、アメリカのハーバード、イェール、バークレーなどで、優秀な学生たちの多くが、自動車の否定を通じこれまでのアメリカ的な文明、社会的な制度に対して批判的な姿勢を示すようになってきている。このように、アメリカの文化、あるいは社会に対する批判が、自動車に対する批判というかたちで出てきていることは、非常に興味あることだ。」
宇沢がケネス・アローに招かれて渡米したのは昭和31年(1956年)で、28歳のときだった。20代半ばで数学者から経済学者に転身した宇沢は、渡米前には大学の経済学部に所属したことがなかった。経歴からいえば、「アメリカ出身の経済学者」といってもいい。
ベトナム戦争によって、なかば追放されるようにアメリカを去った宇沢が、「アメリカ的なるもの」をテーマに抱え込んだのは自然な成り行きだったかもしれない。ウィーン生まれの思想家イヴァン・イリイチと『世界』(1981年4月号)で対談した際、宇沢は興味深い発言をしている。
〈私はヴェトナム問題に深くかかわりを持つようになって、近代経済学の理論を見直さざるを得ないことになったのです。1960年代の終りまで14年間アメリカの大学で教鞭を取ったこともありますが、アメリカがヴェトナムに軍事的に介入するようになり、ますますエスカレートして行く過程に巻き込まれてしまったのです。
そこで問題であったのは、日本も中国も含めて、アジアの人々が、いわゆる近代文明に大きく影響され、自分たちの生活、文化的水準、環境を引き上げることによって文明の発達した世界の一員になりたいという願望を強く持ちはじめたことです。ヴェトナム戦争はいわばアメリカやその他西側諸国がアジアの人々を近代化し、経済的水準を高めようとして介入した結果に他ならないと思います。
日本はもっとも成功した例でしょう。これらの低開発国のうち、土着あるいは低開発の状態から、近代的な先進国に首尾よく変容をとげたのは、日本だけでしょう。しかし、その過程において何がなされたのか、というと、まず、日本固有の文化的、歴史的、土着的要素を否定し、自分の社会や経済のなかに近代的な制度や知識を注入しようとした。その結果、高度の経済成長が遂げられ、今日では、できるだけ活発に、あらゆる種類の経済活動に従事しなければ、生き残ることすらできないという状態になったのです。これが「成長」と呼ばれるものなのですが、日本人が実際どのような生活をしているかをよく観察すれば、日本の社会がいかに文化的に空虚なものであるか、わかると思います。経済成長の速度が速ければ速いほど、文化の空洞もより大きくなるのです。そして、この文化の空洞こそ、さまざまな産業、テレビ、広告、自動車などのいわゆる現代特有の部門が収益を吸いとる対象となるのです。現代日本の産業は、この文化的空洞を搾取しているわけです。〉
宇沢がシカゴ大学から東京大学に移ったのは1968年4月だった。1956年に渡米したから、日本の高度経済成長期を留守にしていたといっていい。GNP(国民総生産)に代表される経済統計の数字によって日本のめざましい「経済成長」を確認しているつもりだったが、いざ帰国して日本の現実を目の当たりにすると驚愕した。高度経済成長の陰で、水俣病に象徴される、様々な深刻な公害が発生していたことを知ったからだ。
水俣をはじめ全国各地の公害現場を精力的に訪れるようになった宇沢は、現場と切り結ぶ姿勢を明確にして、環境問題に取り組むようになった。「環境」の分析を生涯のテーマに据えることになるのである。
アメリカ滞在時を「前期宇沢」、帰国後を「後期宇沢」と呼ぶなら、前期宇沢と後期宇沢のあいだには深い溝がある。すっかり変貌したように見える。しかし当然ながら、宇沢弘文はひとりしかいない。『自動車の社会的費用』が「後期宇沢」出発の号砲となったのは事実だけれども、じつは、「自動車」が前期宇沢と後期宇沢を架橋する役目も果たしていたのである。
最後にもうひとつだけ触れておきたい。「『自動車の社会的費用』を読む」で占部まりさんと対話した際、『自動車の社会的費用』が多義的な内容をもつ豊饒なテキストであることを強調した私に、「でも、日本に帰ってから宇沢はなかなか論文が書けなくなったのではなかったですか?」との問いかけが占部さんからあった。宇沢弘文の娘である占部さんの、家族としての実感がこもっているようにも聞こえた。
この問いには今も簡単に答えることはできない。考える手がかりになりそうなエピソードとして、小説家の安岡章太郎が『繪のある日常』(平凡社)というエッセイ集に書いている文章を紹介したいとおもう。
奇妙な取り合わせとおもわれるかもしれないが、安岡章太郎と宇沢弘文は雑誌『朝日ジャーナル』の書評委員会で席を同じくし、お互い酒席を好むことから親しく交際していた。安岡はあるとき、宇沢からこんな言葉で悩みを打ち明けられたという。
「外国にいた頃、英語で論文を書くぶんには、いくらでも書けたのですがね。日本へ帰ってきて日本語で書こうとすると、サッパリ書けない。これは私のやってきた経済学の発想というかオリジンが、英語をつかって、英語で思考する人たちのなかから生れてきたからで、私が日本語で論文を書こうとして書けないのは、要するに私の発想のオリジンが私自身のなかにはないからだと思わざるをえない。これからそれを何とかして見つけなくてはならないんですがね……」
いうまでもないけれども、長年にわたる思索と行動の末に宇沢がたどり着いたのが、「社会的共通資本の経済学」だったのである。