映画『オッペンハイマー』レビュー+α
はじめに
2024年3月29日公開の映画『オッペンハイマー』を鑑賞した。
本題に入る前に、何よりIMAXで見て良かったという事を伝えておきたい。
IMAXの爆音の表現がかなり今作の魅力に貢献していた。
ノーランがサブスク等ではなく、映画館での鑑賞に重きを置いている事は有名な話だが、今作も音の臨場感が凄まじく「絶対劇場で鑑賞してください」という心意気が感じられた。
本レビューではそこまで大きなネタバレはしないが、それでも内容について何も知りたくない方は読まない方がいいと思う。
ノーランは忠実
『オッペンハイマー』が描くのは戦中、戦後を含めた第二次世界大戦の時代であるより厳密に言えば「アメリカにとっての第二次世界大戦」を描いていた。
そのため、今作では戦中と戦後が時間的な差異はあるものの、これら二つの時期が
直線的に接続されていたのだと考える。
戦地となった国々とは違い、真珠湾を除けば本土に攻撃を受けたことのない国家らしい第二次世界大戦の歴史観が提示されているということだ。
そのため、今作で描かれるアメリカ国内では戦中、戦後問わず一貫して軍拡の方向性が正義とされている。
当然、オッペンハイマー自身の意識は原爆投下の前後で変化するわけだが、アメリカ
国家に変化は無い。世界の平和のため、敵を倒すためという大義のもとに兵器の開発が
推奨される。「世界の警察」として君臨していたアメリカの20世紀史の縮図を見せられたようである。
こうした点で今作はアメリカの歴史観に忠実な映画だとぼくは思った。
歴史観という点では目新しい価値観をノーランに提示させられなかったようにぼくは
感じた。
完全に主観が入ってしまうが、ノーランは新たな価値観の提示という事に関しての関心は薄いのだと思う。ノーランは伝統的なヒューマニズムが根底にあるタイプの監督だとぼくは理解している。
その一方で、原爆実験の必要性が対ナチスから日本降伏、そして対共産主義へと
疑問符を一度もあげられる事なくコロコロ転じていく様を描いた事には意義があったと感じる。アメリカという神の国が常に仮想敵の侵略の影響下にあって、それを克服する事でより良い理想国家へと近づくというピルグリム・ファーザーズ以降の
アメリカの神話への皮肉であると受け取れたからである。
オッペンハイマーと水爆
「原爆の父」がオッペンハイマーであるとすれば「水爆の父」はテラーという人物である。今作でオッペンハイマーは水爆に関しては常に否定的である。
ただし、その否定のあり方は戦中と戦後で大きく変化している。
戦中のオッペンハイマーは原爆が人類史上最後の兵器になると確信していた。
そのため、テラーの提示する水爆の理論に関しては嘲笑的な態度で接する。
戦後に入り、水爆が実現可能となると今度は危険性を感じ、その開発に歯止めを
かけようとした。
この描き方は秀逸であったと思う。オッペンハイマーが背負うべくして
「原爆の父」という十字架を負ったという描き方だからである。
オッペンハイマーは元々は理論物理学者であったが、「マンハッタン計画」という原爆の研究に乗り出した時にはすでにビジネスマンであり、政治家でもあったという事だ。言ってしまえばオッペンハイマーは無意識のうちにアメリカ国家という巨大組織に巻き込まれてしまったという事だ。
個人の自由だとして政治活動にある程度の参画しつつも、曖昧な態度を取ったり、仲間内には脇が甘くなりがちな彼の性格は政治界では弱みになってしまう。
しかし、彼自身は政治家という意識が薄い。一介の物理学者という自己認識と
社会上での自身の立場との乖離が、後々に自身の戦争責任という内省へと帰着する。
そのため、原爆が投下された後に、政治上の責任及び道徳上の責任に向き合うことに
なるのだろう。
『ソーシャル・ネットワーク』を彷彿とさせる構成
今作は主に「回想」という形で複数の時系列が絡み合って進行するストーリー展開となっている。ここで思い出されるのがデヴィッド・フィンチャー監督、
アーロン・ソーキン脚本の映画『ソーシャル・ネットワーク』である。
ザッカーバーグによるフェイスブックの立ち上げとそこから生じた訴訟問題を
取り扱った映画だ。
同じ形式で比較しようとすれば『オッペンハイマー』はオッペンハイマーによる
核爆弾の開発とそこから生じた訴追事件を取り扱った映画と言える。
実際、どちらも訴追の場面と当該の証言内容に当たる過去の回想という構成で物語が展開されていくという共通点がある。
この物語の進行方法の特徴は、証言者ごとの過去に対する捉え方の差異が
物語に多面性を与えるという事と、証言者やその関連人物の所作や発言から
人物同士の過去に対する向き合い方が浮き彫りになるという事だろう。
今作では、政治上の対立と私的な対立という二つの対立構図が証言者ごとの過去
とリンクして描かれていた。オッペンハイマーの元妻や、テラーなどオッペンハイマーの周辺人物同士の過去への対峙の仕方から、過去と現在という二つの時間軸で関係性を読み解くことができる。
相違点は、『オッペンハイマー』の方が時系列の層が厚く、かつ遥かに人物関係の整理が大変という点に尽きると思う。
(正直、一回の鑑賞では追いきれないレベル。)
おわりに
『オッペンハイマー』は3時間にも渡る大作であったが、長さを感じる事はあまり
なかった。ただし、後半は特に政治劇になるため、鑑賞前の予想とはその点は違いが
あった。
画面上の構成の印象としては、クロース・アップの画面がかなり多かった印象だ。
オッペンハイマーを演じたキリアン・マーフィーへの信頼が感じられる。
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