『悪は存在しない』に対する視点の提示
はじめに
2024年4月26日公開の映画『悪は存在しない』を鑑賞した。
本作の大まかなテーマ自体はシンプルで「善と悪」や「自然と文明」といった
形式化された二項対立に対する疑問符であると思う。
実際、濱口竜介監督もインタビューでそれらしきことを言っている。
それでは、さらに一歩進んで考えようと思った時どういったレビューを書くのが
いいのだろうか。このことについて自分なりに考えた結果、自分なりに映画の解釈のポイントをまとめてみるのがいいと思った。
そのため、ラストシーンに関するネタバレや個人的な解釈はなるべく避け、映画の解釈における切り口の提示を本レビューの目的としたい。
そうは言っても、作品の内容に触れることは避けられないので、そのことを了解
した上でお読みいただきたい。
冒頭の場面
本作は木々を映し出す映像から始まる。
しかし、今回注目したいのはそこではなく、その少し後のタクミ(大美賀均)が
薪を切る場面である。
チェーンソーで木を切るタクミを複数の視点で描いた後、薪を切る動作が
ワンショットの長回しで映し出される。薪を切っては拾う淡々とした一連の動作が滞りなく進む。その様子からタクミが山の生活に熟知した人物である事が観客に
提示される。
その後、薪を運びタバコを一服する様子まで何一つ省略される事なく描かれる。
ここから彼自身の動作や生活の
そこから水汲みや、娘の迎えの場面に続く。これらも同様に彼の生活サイクルの
一環である。
こうした冒頭で提示されるタクミの生活サイクルは作中で再度取り上げられる。
しかし、次に取り上げられる際には同じ動作であっても、外部の視点が入って
くる。外部の視点が入ることで、タクミの生活に対する全く見え方が変わってくることに観客はそこで気づく仕組みになっている。
ある一つの動作でさえ、主体が変わることで違う意味合いを持つことに
最初の場面から自覚的であるのは本作の興味深い点であると思う。
反復される象徴
冒頭の場面が再度違う形で繰り返されるということは述べたが、作中における反復はそれだけでは無い。
鹿と水という二つの要素がある種の象徴性を持って作品内で何度も登場してくる。
ここでは、自分なりの答えが出切っていないことを理由に、自身の解釈ではなく
どのような点に注目して観ていくと作品がより楽しめるのかいう方向の舵取りに
役立つ視点を提示するにとどめようと思う。
鹿
鹿は作中で映像としても台詞としても幾度となく登場する。
注目すべき点の一つ目は、鹿は水挽町にとってはごく当たり前の動物で、東京の人々にとってはそうではないという点であろう。
互いの鹿に対する認識のズレや価値観の差が何度も台詞の中で登場する。
鹿に対する人物ごとの認識というのは作品の解釈の指標の一つになりそうである。
次に注目すべき点というと「種族」としての鹿と「個体」としての鹿の差異
だろうか。
鹿自体が人間社会に害を及ぼすことはなくとも、鹿の過剰な繁殖が農村に被害を
もたらす例は現実の問題として日本国内で散見されている。
作中の鹿狩りもそうした自然界の均衡を保つための人間の仕事であると思う。
その一方で、「手負の鹿」という境界線上の鹿が作中で登場する。
この「手負の鹿」は環境の保護という人間の大義の中で血を流す「個体」としての鹿である。作品内において何らかの象徴性を持って登場していると考えて
差し支えないだろう。
水
水は映像面でも本作を彩るのは間違いないが、こちらに関しては分かりやすい形で重要になってくるのがグランピングの説明会における区長(田村泰二郎)の
「水は低い所に流れる」という発言だと思う。下流の水は上流で受けた様々な影響を反映するというのが彼の主な主張であるが、どことなく「バタフライ効果」を
彷彿とさせる言い方であったことが印象深かった。さらにタクミがこの彼の言葉をノートに書き写している点も含め、「水の汚染」のあり方がタイトルのモチーフ
として機能していると考えていいと思う。
加えて「水は低きに流れる」というのは割と有名なフレーズであり、元は孟子の
性善説で使われた「水は低きに就くが如し」が由来である。
現在ではそこから転じて自然の摂理は止めようがないといった意味でも使われる。
一度動き出したらそこから止まることは無いというイメージは本作の
後戻りや修復が不可能のまま進行するストーリーをなぞるような言葉である。
映画のジャンル
本作の映画のジャンルは定義が難しいように思う。
というのもストーリーが予想に反して進んでいくからである。
確かに本作は「田舎町VS都会の生活」という構図から始まる。
この時点で観客は自ずと田舎町の肩を持ってしまうはずだ。
「環境破壊」がテーマに含まれる作品は人間の営みが「悪」になるのが相場だからそれは当然だろう。
しかし、高橋(小坂竜士)ら都会の人間を共感しやすい人物として描くことで
「環境破壊」というテーマから離れて、人物一人一人に焦点の当たったドラマに
重点がシフトしていく。
影響は受けていないと思うが、個人的にはこうしたストーリーの
展開に『スリー・ビルボード』らしさを感じた。『スリー・ビルボード』では三つの看板を活用した警察組織への非難から、『悪は存在しない』ではグランピングの
説明会内での水挽町と企業の対立から物語は始まる。どちらも対立していたはずなのに、互いが接触するにつれ、想定外の出来事が発生する点で共通している。
本作でも、偶発性というのは一つの重要な要素であろう。
特定の人間同士が関わり合うことによって偶然に引き起こされる出来事が層状に
連なるようにして人物が深掘りされ、ストーリーが出来上がっているからだ。
サスペンス性
サスペンス性というのはこの作品の秀逸なタイトルゆえに発生している所が割と
大きいように思える。『悪は存在しない』というタイトルから観客は不穏な空気をどことなく感じ取る。それが通奏低音のように作中でサスペンスフルな影響力を
持ち続ける。ストーリーが解決へ向かったり、人物同士が打ち解けていく過程を
描く中であっても、どこか『悪は存在しない』というタイトルの影が潜んでいる。
そのため、安らぎは一時的なものであり、どこかで破壊されてしまうという印象を
観客は持ち続けることになり、それがサスペンスフルな緊張感を生み出すことに
一役買っている。
もちろん、それだけでなく日常の中で唐突に場の雰囲気が壊れてしまうといった
場面も多々作品内にあったことも挙げておきたい。
コメディ性
本作のコメディは方向性で言えばオフビートになるのだろうか。
人物同士のリアクションは大きくないものの、噛み合わなさがにそうした影響を
感じる。
特にタクミに関しては表情一つ変えることは無く、真顔で失礼なことを言ったり、周囲が明るいムードであっても、真顔であったりと終始浮いている。
無表情を武器に笑いを生み出す技術を「デッドパン」と呼ぶ。
カウリスマキの映画を語る際によく引き合いに出されるデッドパンであるが
本作はそれに比類するほどにタクミの無表情っぷりは徹底されている。
ただしカウリスマキの映画と違うのは、タクミからのみ限定的に感情を感じ
取れないことである。
タクミは作中の主人公でありながら、中々感情移入をさせてくれない人物だ。
当然、観客はタクミの生活や人物を理解しようと試みるが作品を見終わった後
誰もがことごとくそれに失敗したと思うことだろう。
タクミの周囲からの浮き具合はコメディのように映るが、本当にそれでよかったのか我々に考え直すことが要請される仕組みになっている。
終わりに
ここまでつらつらと述べてきたが、本作は解釈の余地をかなり残す作品であり自分自身、完璧に分析できた訳ではない。
寧ろ、解釈に迷っている部分もあり、再鑑賞やさらなる勉強の必要性を強く感じているくらいである。
そのため、ここまで読んでくださった方で別の意見や興味深い解釈がある方が
いらっしゃればコメントで教えて頂けると嬉しいように思う。
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