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20世紀のオカルトに肯定的な思想家(ないし心理学者)と私が似ているところ・違うところ
皆さんこんにちは、noteで夢日記を漫画風イラストで連載しているヤシロと申します。
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先々週に季節性うつのパワーに飲み込まれたものの、先週はずいぶん復活しました
そんな先週は、エンジニアとしての仕事に戻った他、古本屋で見つけた以下の本を読んで過ごす。
※ミンデルをここに加えるのは異論ある方もいるかも、ですが、まあ、広義のユング系列ということで…
過去にnoteでも繰り返してきた通り、
私は反オカルトでありつつ、「オカルトの話題は好き」という矛盾した人間です。そんな私には、過ぎ去りし20世紀のオカルト本は、やはり読み物として面白い。言い方は悪いが、「アブなければアブないほど、読み物としては面白い」。
しかし、断絶面も紛れもなくあります。
概して、オカルト好きの先輩達は、現代社会の日常の偏狭さ、ちっぽけさを問題視し、瞑想や神秘体験を通じて「自己」を超えた大きなモノに触れようとする、
ですが21世紀の、さらにテクノロジーが爆発的に進歩し私たちの生活の隅々まで入り込み、科学が説明する世界観の圧倒的パワーに納得せざるをえない時代に生きてしまっている私は、
瞑想や神秘体験で得られる「日常を超えた大きなモノ」も、所詮は脳の機能の一部であると思ってしまう、何か不思議な体験をしたとしても、「まあ、どうせどんな不思議な現象を見たところで、十年二十年後には科学であっけなく説明されちゃうようなモノだろうけどな」と、最初から斜めから見てしまう。
そういう意味では、私の場合は、瞑想や夢見を通じて何かを見たとしても、それを「脳の錯覚だろうな」とすぐに封じてしまうし、その向こうに見える膨大な「虚無」が見えてしまっている。
ですが、この、「不思議体験」や「神秘体験」の裏に広大に広がっている圧倒的な空白や虚無と対峙しないと私は、いまどき、不思議や神秘といったテーマを追いかけていられない。さて、この矛盾をどうしたものか?
※現実を超えるもの、日常をこえた変性意識にあるものを見つめながら、徹底して「虚無」であることといえば、先週はこれも読んだ。アブなすぎる本だけど、どこかこの世界観にはいつも強く惹かれてしまう、、、↓
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