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誰にも読まれないし売れもしない「小説」を書く意味について-其の壱
「小説」ですか?
いや、実は私も昔、書いていましたよ!
10代の頃にね。手書きのノートに、小説というのか、ラノベっぽい物語というのか、そういうものをひたすらね
あ、20代の時も書いていましたね。そういう仲間がいたので、多少、同人誌的なところに出してもらったこともありますよ。原稿用紙で600枚くらいの大長編を。でも、人の目につく同人誌なんかに載せてもらえたのはその時くらいで、大量のノートが、誰にも見せることなく、蓄積されてましたね
最近は、自分が書くよりも、「なろう」とか「カクヨム」とかで、アマチュアの方が書いた小説を読むほうが、好きですね。でも、そういうサイトを見ていると、たまに、若い人の悩みの投稿を目にしますね
「自分はプロになる気もないし、人に読んでもらうために自分の作風を変えたくもない。でも、人に読んでもらうこともない小説を書くのが大好きって、恥ずかしいです。無意味なことですからね」
うーん、なるほど
それがどうして「恥ずかしい」と感じるのかには、たぶん、大きな理由があるので、最後に触れます。だがその前にまず、
売れもしない、人に読んでもらえない(かもしれない)、そんな小説を書くことの意味について、私が思う事を話しましょう
なにせ私は、「人に読んでもらえないかもしれない」どころか、インターネットもなかった時代ゆえ「最初から誰かに読んでもらえる可能性ゼロ」な小説を書いてた人だものw
その経験から言うと、
確かに、金銭的な面でも、キャリア的な面でも、本人のプライド的な面でも、何にも結びつかないことです。
でも、好きな人だけ、わかる話かもしれないが、夢中になって自分の想像の世界のキャラクターたちを動作させ、会話をさせ、ひいては起承転結のあるドラマの中で「生きさせる」ことには、何か特別な「すごい感覚」がある
エゴが消えて、現実感覚も消えて、危険な言い方だが「トリップ」しているような、
※そういえば『ゲーデル・エッシャー・バッハ』という数学の本(私の生涯の愛読書)の中に「有限の数のはずの脳細胞が、無限を生み出す、不思議のループ」についての話があったが、あの感覚に近いかもしれない。物理に制約されている筈の私の脳から、無限に近い広がりを持つ「虚構世界」が湧き出てくるというのは、厳密には「無限に広がっているような『気がする』有限情報の虚構世界」なだけなので不思議ではないのですが、やはり、不思議なことである。
まして、
自分の書いた物語の中で、キャラクターが、まるで自分の人格を持ち始めたかのようにひとりでに動き出す、あの不思議感覚はすごいですよね。
あの感覚が、脳科学的には、なんなのかは、
すいません、私にも、わかりません。
ただ、そうやって、「自分とは違う人格を生み出して行動させられる」ことは、人間の脳ならではの不思議な能力ではなかろうか
すると、小説を書く、ということは、特に無心になって夢中に書く、ということは、人間の脳の中にある、そんな「不思議な能力」を引きずり出す、きわめて人間的な冒険なのかもしれない、と思う
もしかしたら、ですが、
もしかすると、ですよ、
本気で小説を書いて無心になっている時って、人間の脳の中の、「普通に生きているだけでは使わない、ディープなところ」を活性化しているのかもしれませんね。一種、「擬似的な多重人格」みたいなことになるのですからね。
いやもしかしたら、古代のシャーマンのトランスみたいに、密教の瞑想みたいに、アメリカ大陸のインディオが幻覚キノコを使ってビジョンを得るように、小説を書く事を極めていったら、なにか人間の常識のリミットを外れた、凄い精神状態に到達、なんてこともあるのかもですね
「そんなまさか!そんなたいそうな話があるもんか?!」
ですって?まあ、信じてくれないならそれでも結構。そして、今の私の広げた風呂敷を信じてくれなくても、
小説を書いている間は、自分が相対化されて、一時的に「他人になる」ことができる。そしてそれは、「基本的に、人間は、生まれついた『自分』というものから他のものになることはできない」という物理制約に挑戦する、凄いことである
だから、私から、偉そうなアドバイスがあるとすれば、
小説を書くのが好きな人、というならば、できるだけ、現実の自分と違う境遇の主人公にチャレンジしてみてください!得るものが大きくなります!
というところですね。私は10代の時に、江戸時代の医者、という、なかなか難しい設定の小説を書いたことがあります。あまりに当時の私には難しくて、尻切れトンボな終わらせ方をして、というか、まあ、唐突に打ち切りましたがw、あの時ほど、江戸時代の生活や風俗について勉強しまくったことはなかった。
他にも、性別を変えてみるとか、年齢を変えてみるとか、時代を変えてみるとか、、、右寄りな人は左寄りな思想の主人公を書いてみるとか、左寄りな人は右寄りな思想の主人公を書いてみるとか、そうやって「他人になる」ということの凄さを極めると、面白いかもしれませんね。自分と違う人を主人公にしてからかう、というのではないですよ、本当に、自分と違う人に「なりきる」です、これ極めると、凄いことだと思う。
それは金銭的にもキャリア的にも、プライド的にも、何も満たさないかもしれませんが、なんか、そういうものを超えた世界がある。そういうものに触れる生き方を選ぶというのは、殺伐とした現実世界を元気に生きるために有用かもしれません。だいいち、少なくとも、日本語は上達するからw
ただし、ひとつだけ注意を。
さきほど、シャーマンとか密教僧とかインディオ呪術師の話をした通り、
そして、こういう趣味を持って、「自分だけのオハナシを作っています」というのが、どこか「恥ずかしい」という気持ちが生まれることが示す通り、
このような営為が、「社会の役に立つ仕事を死ぬまでやりつくし、公共のために死んでいくべきだ」という、近代以降の「社会人」の常識からすると、残念ながら「狂気」を孕んだアブない行為に見られることは間違いない。
むしろ、近代以降が切り捨ててきたはずの領域を蒸し返しているようなところがある。「人にあんまり言えない、恥ずかしさ」という気持ちは当然かもしれない。
もちろん、私自身は、そのように「近代が人間に掛けたリミットを外す」アブなさをもっていることを、とても好意的に、凄いことだと思っている。
でも、「気持ち悪い」「狂ってる」「子供っぽい」「変だ」と頭ごなしに嫌がられる危険があることは従前に気をつけたほうがよい。10年後、20年後にはどうなるかわからないけど、少なくとも今は、
誰にも読まれないし売れもしない「小説」を書くのが大好き❤
、、、などとは、あまり無理にコチラから名乗り出る必要はないことかもしれません。まあ、最近は「創作」自体には世の中はだいぶ寛容になったので、「小説を書いていまして、今は売れていませんが、いつか、売れてお金になればいいな、という夢があります」と優等生的なことを言っておけば、「そうですか、難しいと思いますが頑張ってください」と返ってきて、特に奇異な事もなく収まるかもしれませんw