『ジョーカー1』で知覚しえぬ身体を得たはずのアーサー『ジョーカーフォリアドゥ』で「再領土化」されて終わる…合掌🙏
公開中の映画『ジョーカーフォリアドゥ』(いわゆる「ジョーカー2」)についてしつこく文句を垂れている私ですが、
いまいちどアーサー・フレックのことを考えてあげたく、
今週、『ジョーカー1』を見返すということをやりましたよ。
何度もしつこいようですが、私はもともと『ジョーカー1』には批判的でした。今見ても、やはり、いろいろツッコミたくなる点がある。
だが、
『フォリアドゥ』を観た後の、今、見ると、印象が変わったことは確かです。
つまり、
「『フォリアドゥ』と比べると『ジョーカー1』には、確かに、何かパワフルなものがあったんだな、、、」というもの。
それが「社会的弱者だ」とか「犯罪の煽動だ」とか言われると、それはまあ、そういう解釈もできるのですけど、
私が『ジョーカー1』を評価できる点は、やはり、あのラストシーンでしょう。あそこで「この映画そのものが妄想かもしれない」という可能性を残したからこそ、『ジョーカー1』は侮れない映画になった。
ま、昔流行した現代フランス哲学っぽくいうと、「あのラストの曖昧さがあったおかげで、アーサー・フレックは『知覚し得ぬ怪物』となって、我々の認識装置を無効化してしまった」ところがあった。我々観客からも「逃走」してしまう凄みがあった。そのキャラクターとしての生命力の横溢は(それに感化される観客がいることの是非は別の論議とするなら)、なるほど、一種の魅力があった。
ところが私が『フォリアドゥ』を批判するのは、まさに、私が評価した『ジョーカー1』のラストシーンを「なかったこと」にした点。「既存のレッテル貼りから逃げてしまう不思議なキャラクター」のアーサー・フレックが、「ジョーカーになりきれなかった哀れな男」というレッテルを貼られて、
まあ、、、またしても現代フランス哲学流にいえば、「再領土化」されてしもうたw。何に?「資本主義によって再領土化された」という大袈裟なハナシではないんです。単に「ハリウッドの都合によって再領土化」されw、とても無害で、安心できるものになった。
でも、これによって『ジョーカー1』の、「よくもわるくも」溢れ出ていたエネルギーは、アーサー・フレックから消えたよね?、、、まあ私は、結果として、「『ジョーカー1』のアーサーと『ジョーカー2』のアーサーはそもそもつながってない」という身も蓋もない結論を採用しましたが。
ま、つまり、『ジョーカー2』は作んなくてよかったってことですよw。でも作ったのはなぜかというと、単にハリウッドの内部での都合だったとしか読み取れず、そうなるとキャラクターとしてのアーサーには心より同情する。
まあ、アーサー本人が、どこで間違ったのかと真面目に「現実の人間を評するように」考えてあげたならば、
やはり、『ジョーカー1』で、妄想の中だけではなく現実で、しかも公衆面前で人を殺してしまった時からでw
これはこれで、私の倫理観も少し風変わりかもしれないが、
現代の秩序や、現実世界の息苦しさに不満がある人ほど、ほんとに犯罪者になってはいかんのだw。「人畜無害なようだが、なんか、善人か悪人かつかみどころがない人、不思議でアヤしい存在感を放つ人」として、潜水艦のように資本主義のあみの目の間に潜航しているほうがオススメである。
そういう意味では、『ジョーカー1』の最後で、「実は、この映画で話したこと、ぜんぶが嘘かもしれないよーん?」とニタニタしていた時のアーサーがいちばん、『知覚し得ない怪物』に近づけてた。
そのラストシーンが「なかったこと」にされてるとなると、、、やはりいちばん怖くていちばんズルいのは監督のトッド・フィリップスということになるw。が、そのことも今回はあまりしつこく文句言うまい。もしかしたら、トッド・フィリップス自身も、本人の意志とは何か別のものに再領土化されて、牙を抜かれて、そのうえ、興行収入失敗の責任をぜんぶ負わされてるだけの人って可能性もあるからな、、、
結論。「知覚しえぬ怪物」になったつもりでも、気がついたら、結局は巨大なものに飲み込まれて自由を失ってしまう。。。やはり潜水艦のように潜航して生きていきたい。私がよく使う言い方をするなら「水上にしゃしゃり出てこないネモ船長」こそ最強だ。
アーサー・フレックは残念ながらあんなことになったが、私は彼の悲劇を忘れまい。合掌🙏
※2024/11/14現在では日本ではまだ開いてませんが、早くも『フォリアドゥ』のデジタル配信始まるようですね。。。↑