私が『ジョーカー1』に批判的な理由が「いくらなんでも社会は弱者にここまで冷たくないよw」だったんだが・・・あれ?
なるほど『ジョーカー1』は確かに今みても特別な映画だったと思います。
かくいう私、もともと『ジョーカー1』についての意見は批判的だったのですが、それでも、研究分析して語るべき点の多い映画とは思っていました。
ただ・・・どうしても私が『1』について気になったのは、主人公アーサーの「社会的弱者」としての描き方が、いささかステレオタイプじゃないか、という点と、
もうひとつは、
アーサーをいじめる「社会的強者」の描き方もステレオタイプだと思っていたこと。
その典型が、クライマックスのテレビトーク番組の司会者が、アーサーに対して、
「みじめな言い訳はそれで終わりか?自己憐憫はそれで終わりか?世の中はもっと努力してんだぞ!」
みたいにネチネチネチネチと強者の立場から冷たい説教を垂れ始めるところ。
いやいや!リアイティがないよ!実際、生放送の番組にこんな扮装を着た男が入ってきて、自分の苦しみを訴え始めた時に、「てめえは弱者だ!自己憐憫を垂れてんじゃねえ!お前のハナシなんか聞くか!おい誰かこいつをツマミだせ!」なんて対応するかねえ?「まぁきみ・・・ちょっと落ち着いて!話は向こうで聞くよ?な?」と、とりあえず興奮を抑えようとするんじゃないかねえ?(そのあとで結局、警察に突き出すのは同じだとしてもね)
・・・って思ってたんだけど、最近のアメリカのいろんなメディアを見ていて、
いわゆるエリート層と非エリート層の(極端な一部の人とは信じているが)相互の口汚い罵り合いを見ていると、
「あれ・・・?アメリカでは、『ジョーカー1』の、あの社会の冷たい感じって、リアリティあるの?」と少し私も考え直しちゃった。もしそうだとすると、私の『ジョーカー1』の見方も少し変わってくるけどね。
あくまで、思考実験ですが・・・
もし、アーサーが『ジョーカー1』のクライマックスで、アメリカのエリートメディア局のトーク番組ではなくて、
日本のお笑いバラエティ番組で「最近ネットで話題のジョーカーさんをゲストにお呼びしましたー!」と登場してたら、どうなっていたのでしょう?
お笑い芸人が司会をやっているようなやつで。
『男はつらいよ』の寅さんを生んだ日本文化の土壌、「まぁ、とにかくお兄ちゃん、そんな悲観することもないだろ?俺が話を聞いてやるから?な?」みたいな、人情話になって・・・アーサーの人生の結末はずいぶん変わったのではないでしょうか?
それでも、けっきょく警察を呼ぶ結末は同じでしょうが、アーサーのココロはずいぶん変わったのではないでしょうか?・・・というのは、私が日本の空気というものを過大評価しているからなのかな?
ただねえ・・・アメリカというものは決して嫌いではないのだが、あの「意見が違うものは徹底的に許さない」という激しさは、「和をもって尊しとなす」と教えられてきた私からすると、どうにも、合わんのは確かだw。
「対立、討論、口論ばっかりじゃ、いつか、分断はいくところまでいってしまうだけなじゃないのかなあ」と思ってしまうのですが、如何?
ともあれ、『ジョーカー1』の見方が最近、少し変わってきているのは事実。最近公開された『ジョーカー2』に対する失望感が大きかったせいで、逆に、『1』を見直して評価し直してあげよう、という気持ちになったのがきっかけですが。