フェイクニュースVSドストエフスキー
「あれはフェイクニュースだ!」
「いや、お前こそフェイクニュースだ!」
とやりあう風潮が日本にも上陸してきているような所感を受ける最近ですが、
哲学や文学をやっている人(特にイギリス経験論対ドイツ観念論の流れを押さえた人)にとっては、
フェイクでないニュース、つまり完全に客観的で偏りゼロのニュースなんてものは、そもそも存在できない、が結論
フェイクでない情報があり得るとすれば、「明日は雨が降るか降らないかのどちらかでしょう!」みたいな論理構造(=トートロジー)をとることになる。
しかしこれは何も発言していないに等しいから、こんな情報を発信することを「ニュース」とは誰も呼ばないはず。
それじゃ、どうすればいいのか、という話が現代の課題なわけで、
たとえば私がしつこく依拠する、ロシアの思想家バフチンは、
「ドストエフスキーの小説では、右の人も左の人も、宗教に寛容な人も無宗教の人も、時には作者ドストエフスキーの思想に反するような信条を持った人すらも、一貫した主張を持った登場人物として生き生きと発言し、彼らの対立や和解がドラマを作り、かつ、『物語が終わったあともこの議論は解決していない』という投げかけで小説が終わる。あのような多声的な世界が理想」
ということを言っている。
なるほど、
作者が自分の思想に合わせたハッピーエンドで解決しちゃう小説は二流で、
終わった後に「僕がこの物語の中にいたらどう主張しどう行動していたろう?」と深く考えさせる小説こそが一流の現代小説、
というなら、私は大変に賛成いたします!
そしてこういう考え方を敷衍すると、あふれるフェイクニュースに対する生き方は、
できるだけ複数のメディアを並行で見るクセをつけ、「同じ情報を、ある報道機関はこう言っていて、別の報道機関はこう言っている」と常に複眼的にとらえることしかないし、それでよいのではないでしょうか(※そもそもネット社会では、複数の報道機関を並行で受信することが簡単にできるのでありがたい!)。
そういう意味では、右寄りな人にこそ左寄りな報道機関の視点をたまに読むことが貴重だし、左寄りな人にこそ右寄りな報道機関の視点をたまに読むことが貴重、と思うのですが、
「フェイクニュース!」という言葉で他人を批判する人は、
「◯日新聞など潰れてしまえ!」
「いや、◯売新聞や◯経新聞が潰れてしまえ!」
という話になるから、どうも穏やかじゃない。少なくとも「ドストエフスキーの理想」とは真逆。
自分の好きな報道機関だけを残せというならモロに全体主義ではないですか。
そんな私の結論、
やはり古典の名作文学はしっかり読みましょう!その中でも特に、というなら、私ならドストエフスキーを推薦します!
「小説を読む時間がなかなかないので、ドストエフスキー作品の雰囲気だけでも、まずは入門したい!」という方は、以下がおすすめ。
舞台をロシアから北海道に移し替えているという大胆な解釈ですが、黒澤明監督はたぶん日本人の中でもとりわけ深いレベルでドストエフスキーを理解しているアーティストと思われ、圧倒されます!これを観てビビビッときてから、小説に取り組む、というのも、よいと思います。