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図書館という場所がたまらなく愛しくなる夢のこと(あるボルヘス愛読者の告白)

この noteでもたびたび、アルゼンチンの作家ボルヘスへの敬愛を語ってきましたが、私がボルヘス好きである理由は少年時代の体験のせいかもしれないと考えさせられてしまう夢を見ました。

これまでも何度か繰り返し見てきた夢なのですが、

・迷路のような広大な図書館に迷い込む
・無限に書棚の列が続いていて出口が見えない
・そこにはどうやら自分一人しかいない(もしかしたら、図書館の職員たちが、私がまだ中にいることに気づかず、閉館して帰ってしまったのかもしれない)
・だがこんなにたくさんの本に囲まれて一人、というのも、なんだか悪くない、と思い直す
・面白そうな表紙の本をいろいろと抜き取り、積み上げたそれらの本に囲まれて床に寝そべり、気ままな格好で、思う存分、読書を楽しむ。とても満たされた気持ちになる

・・・なんでこんな夢を何度も見るのか、長らくわからなかったのですが、

本日、突然、気づきました。

ずっと昔、少年時代の頃、何か辛い目にあった時には、いつも一人で図書館に出かけて、気が済むまでそこで時間を潰していた、そんな時期がありました。

夢の中に出てきた図書館には、たしかにネット検索機もなければDVD視聴室もない、つまり私が子供の頃の年代の「図書館」の形態。あれは私の少年時代の図書館の印象なのですね。

ああ、自分の無意識の中では、図書館というのは現実で辛いことがあった時の救い手として記憶されていたのか。フロイト派のカウンセラーならきっと「母胎の記憶とも混じっているのだ」とか分析してくれるところかもしれませんが、どうもそういうただならぬ重要な場所として、図書館が私の脳には深く刻まれているようで。

ボルヘスは「迷宮としての書物」というテーマの小説を何度も描き、

その影響を受けたウンベルト・エーコは『薔薇の名前』で文字通り「図書館の迷路」を登場させましたが、

こういう人たちもきっと、少年時代や思春期に、図書館に逃げ込むことで精神を保っていた記憶があったのではないでしょうか?

そう推測すると、私がボルヘスやエーコの文学が好きなのは、無意識レベルで当然のことなのかもしれません。

結論。子供たちに「もっと図書館を活用しよう」という呼びかけをする運動は多々ありますが、「図書館というものは、多くの傷ついた子供の心の(特に文化系なw子供の)癒しの場として機能してきたのだ」という観点から、ぜひ、そういう運動をする人たちには自信を持ってほしい。

残念ながら、いろんな意味で、「辛いことがあったら図書館に逃げ込むとよい」とは子供に直接は勧められませんが(「職員室や保健室に行きなさい」がオトナとしての模範解答ですからね、、、)、恥ずかしいからなかなか告白しないだけで、「図書館をそういう、一人になれる大事な逃げ場として使っていた」という少年少女期を持っている大人は、存外多いのではないか、と思った次第です。

↓※私の「ボルヘス愛」な過去記事はこちらです


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