
日本仏教を追いかけるとぶつかる多分「あの真理教」がぶつかったのと同じ場所
以前もnote記事で「日本仏教の追っかけ」というテーマを何度か話しましたが、今回はちょっと辛い話をします。というのも、
昨今のテロと戦争の時代、
「西欧の一神教は、どうしても、『自分たちこそ正しい宗教で、他は異教徒』と考える傾向があり、ついていけない」
という意見がある。まあ、言わんとすることはわかる。
そして、こういう意見もある。
「日本仏教は、その点、平和的であり、暴力や、異教徒に対する排除とは無縁だから、いい」
と。これもまあ、言わんとすることはわかる。
私も、できれば、そういうふうに考えたい。。。が、実は、そうも行かない。というのも、そもそも私は世代的に、90年代に、カルト宗教が猛威を振るったことを知っている。
地下鉄にサリンが撒かれた時には子供だったとはいえ、忘れられるモノではないのです。

で、そんな私が、それなりに、あの90年代の悪夢を乗り越えて、それなりに宗教とかスピリチュアルとかを何とか再考したい、、、と思ってるのがこのnoteチャンネルでもあるのですが、
そんな私からして、とても残念ですが、日本仏教も暴力からは無縁ではないと思う。どういうことかって?辛い話ですが、やはりこのことは話しましょう。
仏教に『理趣経』という経典があります。私は、良くも悪くもな意味で、これに注目してきた。というのも、この『理趣経』というのは、いい意味で捉えるなら、現代人の常識からぶっ飛んでいて凄い、、、だが悪い意味で捉えるなら現代社会そのものに背叛する立場になりかねない危うさを感じる。
※いちお、私オススメの入門書を挙げておきます↓
理趣経に書かれていることは多岐に渡りますが、そのまま読むと、以下のようなことが書かれている。
・男女の性愛は不浄ではなく、むしろ悟りの境地
・この世には善も悪もない。どんな悪人も、仏教にきちんと寄与すれば、地獄に落ちることはない
・仏教を守るための暴力、つまり仏敵に対する怒りの暴力は、大いなる慈悲にもとづくものだから、許される
とかとか。まあ、なんと仏教サイドが弁護しようと、そういうふうに読める話がどんどん書かれているぶっ飛んだお経であることは、私としては、無視できない。
つまり、仏教の中にも、「欲望の肯定」「許される暴力というものはある」、と読める思想は見つかったのだ。そしてこの理趣経が特に密教系の宗派においては朝に夕に好んで読まれるお経のひとつとなると。「日本仏教なら、肉欲とか暴力とかとは関係のない平和で穏やかな世界だ」と長年信じていた私が最初に理趣経に出会った時、衝撃を受け、しばらく仏教を「怖い」と思ったことは言わなくちゃいけない。
だが待てよ?
待てよ、待てよ?
「自分たちが自分たちだけの共同体にこもって修行をしているうちに感じたトランス状態や神秘体験があまりに素晴らしく、それを理解してくれない現代日本社会のマジョリティのほうが間違いで、つまり、慈悲のためにも、現代日本社会で堕落した生活をしている人たちは殺してあげたほうがよい」というのは、どこかで聞いた論理ですよ?この理屈を堂々と主張してる人を覚えてますよ。と、ねえ、私は世代的に、そう思ってしまう。
こういうのがあるから、
日本仏教は世界の宗教や思想の中でも、平和的で穏健なものだ、とは、やはり、私には言えない。当たり前だが、日本仏教の中にも、掘れば、怖いモノが出てくるのだ。
ただし、、、これを敷衍した上で、私は結局また、日本仏教の勉強に戻ってきた。どうしてまだ戻ってきたのかは、よくわからない。
・男女の性愛は不浄ではなく、むしろ悟りの境地
・この世には善も悪もない。どんな悪人も、仏教にきちんと寄与すれば、地獄に落ちることはない
・仏教を守るための暴力、つまり仏教を弾圧してくる社会勢力に対する怒りとしての暴力は、大いなる慈悲にもとづくものだから、許される
、、、何度読んでも、そうとしか解釈できないことが、理趣経というお経には、書いてある。
でも、空海さんや最澄さんが、この『理趣経』に高い関心を抱いていたことは知られているが、空海さんや最澄さんが、そんなことを主張していたとは、とても思えない。
ということは、、、
何のことはない、僕はまだまだ、日本仏教のことを、よく理解できていないのだろう。いや究極を言えば、空海さんや最澄さんを含め、「仏教のことがぜんぶわかった!」なんて人は、歴史上、お釈迦さまご本人以外には、一人も出ていないというだけかもしれない。
そうなると、
どんな宗教でも、「俺は○○の教えを理解したぜ!」という気持ちになった時に、独善と堕落が始まるのであって、
仏教では肉欲は否定されているはずなのに、ある経典には大肯定するようなことが書いてある、、、どっちやねん?!
と、大混乱してしまうことが、むしろ正しい仏教との付き合い方かもしれない。そう考えて、だいぶ、私の気持ちは整理できた。
というわけで、私が思うこと、
一神教が良いか悪いか、とか、多神教が良いか悪いか、とか、日本仏教が良いか悪いか、とか、無宗教の方が良いのだ悪いのだ、とか、、、そんなふうに考えるよりも、端的に「私はまだ何もわかってないんだろうな、、、もっと勉強しなくちゃダメなんだな」とずっと迷い続けてる方が、実はマシなのかもしれない。
↑これが、90年代のカルト悪夢と同じ過ちを繰り返さない秘訣、、、と言えば心許ないが、少なくとも私は、「わかったつもりになること」「わかってない世の中の大多数が愚かだと見えてくること」は、生涯、絶対に、避けたいと思う次第です。
こうやって、迷いながらの勉強の人生は、きっと、いつまでも、いつまでも、続く。
いつまでも「わかった!」と安心し自信を持てる日は来ない、、、でもそれはそれでよいのかもしれない。
と、いう思いを語ったところで、一応、「日本仏教はエロもバイオレンスも無縁な清らかな世界」と思っている方にはショックかもしれない「理趣経」の入門書を、紹介しています。ただし今回の記事で述べた通り、「この理趣経で書かれている、一見するとエロやバイオレンスも『あり!』と言っているような論理が、もしかするともっと深い知恵へ読者を誘導するためのショック療法的な深い何かなのかもしれない」という迷いは私の中にあることは申し添えておきます。