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映画『ジョーカー1・2』の問題点:私とて昔は学校カーストで底辺にいたから見えるあの映画のバリッバリな違和感

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『ジョーカーフォリアドゥ(いわゆるジョーカー2)』を公開初日に見に行って以来、ずーーっと批判を続けている私ですが、さすがにしつこいかな?w

でも、また『ジョーカー』シリーズについて語りたいことが出てきた。

よし、また、やろう。「しつこい」と思った方はすいません容赦なくブラウザバックして下さい😓

ところでと、

朝日新聞デジタルがこんな特集を始めているようですね。

悲しいながら私も世代的に、「大手メディアが私の関心事を取り上げてくれた」と評価したくても、しばらくすると「、、、というわけで、弱者の皆様、権力を打倒しましょう!」という定型結論にまとめられてしまうのが怖くて素直に評価できないのは悲しいがw…あ、でも、最近気づいたが、大手メディアのこういう記事が出た時、「その記事」を書いた記者さんやライターさんの名前をチェックして、その人個人が著者として書いてる本やら個人的に発信してるSNSやらを追うようにすると、かなり「アタリ」の人に出会えます

私自身は、DVの被害者ではないけど、個人的にいつも気になるのは「弱者男性」というキーワードです。このレッテルは気になるし、気になってる私が言うのもナンだが、呼び方を変えたいな。

なお、注意してほしいのは、

私自身は、「弱者男性」とは言えないこと。たぶんね。

そりゃ、以前もnoteで述べたことがある通り、10代の頃は「顔が気持ち悪い!」とクラスに言われながら三年くらいを過ごし、かなり精神医学的にも錯乱した若き日を持ってますが、しかしそこから就職したし、結婚までしたのだ。その後うつ病をやらかしたがそれはブラック企業問題というまた別の話だしw

まあそんな感じでなんとかやってる私より、推定1,500万人の、家庭なし貧困独身男性の境遇、あるいはこの朝日新聞記事にあるような、結婚によって家庭内暴力から逃げられない男性の方がはるかに重要。

※ちなみにですが、社会人になってからは、誰にも容姿のことを言われなくなり、、、どうやら私の容姿は別に「気持ち悪い」ことなどなく、誰も気にしない実に平均的な日本人男性の顔つきだと「初めて知った」。学校って、なんだったのだ?まあ卒業できたから、もういいんだけど。だが過去のトラウマから私は今でも写真嫌いだし、ネットに自分の顔を描く時はウサギの漫画顔にしている。単純に自分の顔をニンゲンの顔では怖くて描けない。ていうか自分の顔のことをよく知らないのだ。ま、これも人生。

♫That’s life

ただ、上記の本などを見ていただければわかるとおり、「弱者男性」といってもいろんなケースがある。それをわかった上で、「男性が悩みや問題を相談しやすい窓口をもはや公的に作ろう」と、入口を拡充するのは大賛成です。だがそこにやってきた男性全員に「〇〇男性」みたいなカテゴリーをつけるのは別のヤバさがある。

特に「弱者男性」というコトバ自体、ネット上での悪口として、すでにステレオタイプ化している。別の呼称を作るところから始めるのがよいのでは?

まして、アメコミ原作の暴力映画で、面白おかしくキャラクターとしてステレオタイプ強化につかうもんではない。

ねー?

ねー?

私の言いたいことは、頭のいいアナタのこと、きっと、ぜーんぶわかっているのに、わかっていて、これをやりましたよね?トッド・フィリップス監督?wそーです、これですよ、これ!

ネットの悪口レベルのステレオタイプどおりのキャラクターをわざわざ高い予算で強烈に映像化して、世界にばら撒いて、しかも「しょせんアメコミ原作ですから」みたいなオブラートで安全圏から放ちましたよねw。そのみえすいた戦略を「お見通しだよ?」と私はさんざん批判してきた。

「弱者男性ってのは、こういう生活をしているだろう」「弱者男性ってのは、近所の異性にちょっと声をかけられただけで妄想グルグルになるものだろう」という、ステレオタイプの期待通りのキャラクターを見せておいて、なおかつ問題なことには、「そして追い詰められた弱者男性は犯罪や暴動に走る」ってステレオタイプをお望み通りに世界にばらまいた(※もちろん、社会的に追い詰められた男性の中には「暴力に走る人も、いる」ことは否定しないよ。実際に映画『ジョーカー』のコスプレをして暴れた人はいたからね。ただし私が文句を言っているのは、レッテル貼りと、ステレオタイプの強化という論点です)。

ところが、

『ジョーカー2』のおかげで、なんとなんと、私の見方が変わりました。『2』を見た後、『ジョーカー1』はずいぶんマシだったと納得したのです!少なくとも議論喚起の効果はあった。「実際にこの映画の主人公みたいな人がいたらどう接する?」ていう思考実験を見た人に促す力はあった。それに『ジョーカー1』は、「ぜんぶが主人公の妄想かもしれない」という曖昧性が効いていた。これが「この映画の主人公は昨今のステレオタイプには乗らない人物かもしれない?」という不安を観客にラストの余韻として残した。それで「安易な理解」とか「安易な同情」とかを峻拒するところがあったのは、いまさらで申し訳ないが、評価します。

『ジョーカー2』?その『ジョーカー1』の美点を「なかったこと」にしたり「歴史改変」したりしてるのでそもそも論外と思うてます。

しかも「これはアメコミ映画ではない」と突然言い出した。まあ、そこをハッキリさせたのは、ある意味、実に結構。これをアメコミ映画ではなく大真面目にやっていたのだとすれば、こちらも大真面目に批判するだけですしw。でもさあ、、、『1』にブルース・ウェインって名前の少年が重要なキャラとして出てきてたよねえ、、、あれも「いなかったこと」にされてるが。。。

というわけで、私も引き続き、オオマジメに『ジョーカー』のことは考え続けますよ。社会的弱者の問題を描いた映画として、ではもちろんなく、「映画がこういう描き方をしてよいのか?しかもエンタメ映画の装いをして世界に拡散してよいのか」って論点として。というわけで、また今後も何かと『ジョーカー』の記事が出るかもしれませんw。これはこれで私の実存上だいじな格闘なわけだが、しつこくてスイマセン、、、。

※ちなみに、最後にですが、『ジョーカー』について、「心優しい青年アーサーはなぜジョーカーになったのか?」みたいなコピーを見かけることがあるが、アーサーって最初から別に心優しくはなかったですよね、、、?非力で鬱屈はしていたが。まあ、それでいうと、『ジョーカー1』の問題はさらに小さくなって、「あんな情緒不安定な人がなんで簡単に銃を手に入れてんだよ」ってだけの話にもできちゃうんだがw。とかとか、リアル路線としてマジメに扱うと、どんどん「身も蓋もない」話になるので、やはり、「どこからが妄想なのかわからない」っていう『ジョーカー1』のオチのままが、見た人に色々考えさせる映画としてよかった気がするんだがなあ、、、。

♫That’s life


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