SF映画考察:『マトリックス』は大好きだが初見時からどーしても納得できない「哲学的問題」についてモーフィアスに切り込んでみたらこうなった
※また、こちらの記事は以前に掲載した内容の一部を改訂しての再掲載となります
皆さん、こんにちは。SF好きのヤシロと申します。
「世界の古典文学のキャラクター達が出てきて現代映画のウンチクを語る」手作りマンガシリーズ、
▼第六話▼
▼第七話▼
▼第八話▼
今回、第九話の題材は、
私も大好きな『マトリックス』ですよ!
ただし、いかにも哲学・論理学肌のSF好きらしいひねくれた取り上げ方になっちゃいましたが、、、↓↓↓
※あと、今や『マトリックス』のストーリーを知らない人も珍しいとは思いますが、いちおう、以下、ネタバレ含みになりますので、「まだ『マトリックス』を見たことがない、これから見たい!」という方はご注意ください!
でも、、、でも、、、私だけとは思えない!哲学的なSF考察が好きな方は、初見の時から、↑『マトリックス』のこの問題、気になりませんでした?
むしろ、どうして、キアヌ・リーブス演じる主人公は、この哲学的問題に悩まず、素直にモーフィアスについていったのだろうと不思議に思いました。
あ、まあ、もちろん↑これはいささかフザけて言っているだけで、私も真の理由はわかっておりますよ。「そんな問題に主人公がいちいち悩んでいたら、そこで映画のストーリーが進まなくなっちゃうから」という物語創作上の都合だってことは勿論w
そして誤解のないように、繰り返しますが、私自身もまた『マトリックス』シリーズの大ファンですし、
そもそも私自身とて、『マトリックス』の映画を見ている間は、こんなことに頭を悩ませてはおらず、アクションや冒険を心から楽しんでおります。
ただ、もっと哲学的に複雑怪奇な展開をする、「現実と仮想の境界が壊れていく系」のハードSF名作に慣れていると、「マトリックスの主人公は素直ないい奴だな、、、あれがもし、フィリップKディック文学の主人公とかだったら、ぜったい『もはや俺は誰も信じねえ!』とかこじらせた反応をするのにw」などなど、鑑賞後に、どーしても、思ってしまうのでしたw
なんてまじめぶった考察になってしまいましたが、ともあれこの作品、「陰謀論」とか「フェイクニュース」といったテーマのメタファーの話として観ても、面白いし、考察が進むと思いますが、如何に?
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▼後日追記:本シリーズの次回作を公開しました!クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』を取り上げます!▼