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安部公房『壁』読書会(2024.6.21)

2024.6.21に行った安部公房『壁』読書会のもようです。

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私も書きました。



コンステレーション、実存、そして『壁』


ユングの研究家である心理学者の河合隼雄氏の最終講義の動画をYouTubeで見つけて、今朝たまたま聞いてみた。


河合隼雄 - 京大最終講義 コンステレーションについて


この講義で、河合氏は、コンステレーション(constellation=星座の配列、布置)という概念を解説していた。Conは共にあるという接頭辞、stellaはラテン語で、星のことである。


俗に梅干しとうなぎ、スイカと天ぷらは食べ合わせが悪いと言われる。コンステレーションというのは、このような、科学的に因果関係が実証されなくても、当人にとって、因果関係や相関関係があるかのように感じられる関係性を指しているそうである。(それは、固定観念や強迫観念に近い。)


河合隼雄氏の臨床心理療法では、患者に自由に喋らせて、彼らが見失っているコンステレーションを回復させ、心理的な抑圧を解放するそうである。


『壁』を読んで感じたのは、現代人の精神世界にあるいろいろな隠されたコンステレーションのことである。


自分の名前を失ったことで、国家や社会の中で生きていく上での習慣的な関係性を失った語り手の男は、自分のからっぽな胸の中に砂漠の曠野が存在していることに気づく。さらには、その曠野を嗅ぎつけて、動物園のラクダやしまうまが羨望の眼差しを送っていることも気づく。この奇妙な相関関係は、主人公の隠されたコンステレーションであり、彼が(カルマ氏が)名前を失わなかったら、自覚することのなかったコンステレーションである。


現代社会は、そこに存在する労働者、消費者という多数の人間を常に画一化している。画一化された人間は、この社会の中に安定して日常生活を送っているように見えるが、その実、彼らの現実存在(実存)は、国家や社会、資本主義的関係が、お仕着せのように与えてくる関係性の中に閉じ込められている。そして自分の隠されたコンステレーションを抑圧して日々生きているのである。


このシュールな小説は、世間のお仕着せのの関係性を破壊して、自分の精神の中の隠されたコンステレーションを回復するということ書いているのではないか、と私は思った。


『壁』というのは認識の限界である。物自体と現象の境目のことである。Sカルマ氏が、最後に曠野の中に壁として出現するというのは、認識の枠組みを限界まで広げて、抑圧を解放したのではないかと思った。

1920年代のシュルレアリスムの擡頭は、人間の画一化を強制する大衆消費社会の出現に呼応するものである。


現代人は、現代社会の中で自己の実存の出現空間を奪われている。国家や社会に生かされてはいるが、お仕着せのの関係性の中で、現実存在(実存)を抑圧されている。そのお仕着せの関係性を、安倍公房は三島由紀夫との対談(『源泉の感情』河出文庫 P.78)で「ヒューマニズム」と名付けていた。

安部公房は、画一性を押し付けられた者同士の隣人関係からなる上部ばかりのヒューマニズムが、恐るべき抑圧を人間に加えていることへの抵抗を、文学で意図しているそうである。


YouTubeの動画『安部公房と渡邉格の対談』で安部公房が話していたが、イラン・イラク戦争の最中、爆撃にあって瓦礫のとなったテヘランの街角のニュース映像の中に、安部公房は、ドストエフスキーの小説の表紙がチラリと映ったこと衝撃を受けたと語っていた。

イラン革命後、イスラム原理主義に基づいた抑圧的な統治が行われているテヘランで、宗教的懐疑をテーマにしたドストエフスキーの小説を、世間に隠れて読んでいたイラン人がいたということに、どうやら安部公房は戦慄したようである。


つまり、全く知らないイラン人の精神世界のコンステレーションの一端が、急に街頭に飛び出したのである。


瓦礫の一部と化したイラン人は、生前、密かにドストエフスキーを読みながら、彼のコンステレーションを一生懸命に回復させようとしていたのだろう。爆撃されたことで皮肉にも、彼の実存の支えだったドストエフスキーの小説が、投げ出され、ニュース映像によって世界中に暴露されたのである。


(おわり)

読書会の模様です。


 


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信州読書会 宮澤
お志有難うございます。