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【読書録】『伊豆の踊子』川端康成

今日ご紹介する本は、川端康成『伊豆の踊子』(新潮文庫版)だ。表題作『伊豆の踊子』のほか、『温泉宿』『抒情歌』『禽獣』の合計4編が収録されている。

先週、伊豆は湯ヶ野温泉の温泉旅館「福田屋」さんの記事をアップした。こちらのお宿は、『伊豆の踊子』の作中で、主人公の「私」が逗留したとされるお宿だ。

『伊豆の踊子』は、数十年前、まだ若い頃に読んだことがあった。「福田屋」さんを訪問したことをきっかけに、を久しぶりに再読したくなり、本書を手に取った。

『伊豆の踊子』は、あまりにも有名であり、ストーリーの説明は不要だろう。この作品を再読し、心地よく明るい読後感を味わった。川端文学の流れるような日本語で表現された、爽やかさや瑞々しさが、伊豆の旅で触れた豊かな自然や素朴さの記憶と結びついた。

これに対して、本書所収の他の3編(『温泉宿』『抒情歌』『禽獣』)は、いずれも、とても難解だと感じた。読みながら、突然、どきりとさせられる展開もあった。読後には、心がざわついた。

巻末の重松清の解説が、この作品集をよく表現していた。

(・・・)上りかまちに足をかけて最初の障子を開けると、本書所収の残り三篇があなたを待っているはずだ。まずはそこから始めてみようか。魔界と呼ばれる川端文学が ー すなわち、『伊豆の踊子』なんて甘口の食前酒でしょ、とうそぶく作品がいくらでも控えている。
 ウェルカム。特急『踊子』号に乗って、魔界へようこそ。

p210

『温泉宿』『抒情歌』『禽獣』の3編は、まさに「魔界」。収録の順番に読むと、「甘口の食前酒」である『伊豆の踊子』で読者を爽やかな気分にさせておきながら、その後すぐに残りの3編で「魔界」の迷宮に放り込む。何という凄い組み合わせだろう。

以下、この全4編について、特に印象に残った部分をまとめておく。


『伊豆の踊子』

 太鼓が止むとたまらなかった。雨の音の底に私は沈み込んでしまった。
 やがて、皆が追っかけっこをしているのか、踊り廻っているのか、乱れた足音が暫く続いた。そして、ぴたりと静まり返ってしまった。私は眼を光らせた。この静けさが何であるかを闇を通して見ようとした。踊子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった。

p19

 仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな格好で立ち、両手を一ぱいに伸して何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上がる程に子供なんだ。私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた。頭が拭われたように澄んできた。微笑がいつまでもとまらなかった。

p20-21

「いい人ね」
「それはそう、いい人らしい」
「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね」
この物言いは単純で開けっ放しな響きを持っていた。感情の傾きをぽいと幼く投げ出して見せた声だった。私自身にも自分をいい人だと素直に感じることが出来た。晴れ晴れと眼を上げて明るい山々を眺めた。瞼の裏が微かに痛んだ。二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。だから、世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言いようなく有難いのだった。山々の明るいのは下田の海が近づいたからだった。私はさっきの竹の杖を振り回しながら秋草の頭を切った。
 途中、ところどころの村の入口に立札があった。
ー 物乞い旅芸人村に入るべからず。 

p37-38

『温泉宿』

 彼女等は獣のように、白い裸で這い廻っていた。
 脂肪の円みで鈍い裸達 ー ほの暗い湯気の底に膝頭で這う胴は、ぬるぬる粘っこい獣の姿だった。肩の肉だけが、野良仕事のように逞しく動いている。そして、黒髪の色の人間らしさが ー 全く高貴な悲しみの滴りのように、なんという鮮やかな人間らしさだ。

p48

(・・・)一人の男の残し物は、彼女等のうち一人だけが食べ続けるのだった。これはいつからともない、彼女等の間の不文律だった。このようなことは、客には決して漏らさない彼女等の秘密だが、膳の上でも浮気者は、やはりお絹だった。お絹が川上の家へ移ってからは、お雪だった。
 ところが、工夫監督の膳に先立って手を出したのは、こんなことは珍しいお滝だったのだ。つまり、彼のものになってもいいという、彼女等流の告白なのだ。

p88

 お滝が離れの玄関にうずくまって、工夫監督の足に黄色いゲエトルを巻いてやっているのだ。彼女の白い首と桃割れが、玄関に腰かけた男の膝あたりに、悲しい落とし物のようだ。

p89

 お清は無理に起き上がって、自殺の覚悟をした。いや、「自殺の覚悟」という言葉の響きほど強いものではなく、あきらめであった。結果から見て、土工相手に働くことが、一つの自殺であるというに過ぎなかったのだ。
 彼女の味方である子供達には、彼女の死と土工たちとの関係が、まだよく分からなかったのだ。

p101

『抒情歌』

 霊魂が不滅であるという考え方は、生ける人間の生命への執着と死者への愛着とのあらわれでありましょうから、あの世の魂もこの世のその人の人格を持つと信じるのは、人情の悲しい幻の習わしでありましょうけれど、人間は生前のその人の姿形ばかりか、この世の愛や憎しみまでもあの世へ持ってゆきますし、生と死に隔てられても親子は親子ですし、あの世でも兄弟は兄弟として暮しますし、西洋の死霊はたいてい冥土も現世の社会に似ていると語りますのを聞きまして、私は反って人間のみ尊しの生への執着の習わしを寂しいことに思います。
 白い幽霊世界の住人なんかになるよりも、私は死ねば一羽の白鳩か一茎のアネモネの花になりたいのであります。そう思う方が生きている時の心の愛がどんなに広々とのびやかなことでありましょう。

p122

 私をお棄てなされたあなたへの恨みと、あなたを奪いました綾子への妬みとに、日毎夜毎責めさいなまれました私は、哀れな女人でいるよりも、いっそアネモネの花のような草花になってしまったほうがどんなにしあわせかと、幾度思ったことでありましたでしょう。

p125

 あなたという恋人のある時、私の涙は夜の眠りに入る前に、私の頬を流れたのでありました。
 ところが、あなたという恋人を失った当座、私の涙は朝の目覚めに私の頬を流れていたのでありました。
 あなたの傍に眠っていました時、あなたの夢をみたことはありませんでした。あなたとお別れいたしましてからは反って毎夜のように、あなたに抱かれる夢をみたのでしたけれど、眠りながら私は泣いていたのでありました。そうして朝の目覚めが悲しいものになったのでありました。夜の寝入りが涙のこぼれるばかりうれしいものでありましたあの頃にひきかえてであります。

p126

 あなたが私のものであった時、私は百貨店で買います一本の半襟にも、お勝手で包丁をあてます一尾の甘鯛にも、私はしあわせな女らしい愛の心を通わせることが出来たのでありました。
 けれどもあなたを失ってからは、花の色、小鳥のさえずりも、私にはあじけなくむなしいものとなってしまったのでありました。天地万物と私の魂の通い路がふっつり断たれてしまったのでありました。私は失った恋人よりも失った愛の心を悲しみました。

p126-127

(・・・)今日この頃の私は、霊の国からあなたの愛のあかしを聞きましたり、冥土や来世であなたの恋人となりますよりも、あなたも私もが紅梅か夾竹桃の花となりまして、花粉を運ぶ胡蝶に結婚させてもらうことが、はるかに美しいと思われます。
 そういたしますれば、悲しい人間の習わしにならって、こんな風に死人にものいいかけることもありますまいに。

p140-141

『禽獣』

 小鳥やが持って来たのは夜であったから、すぐ小暗い神棚に上げておいたが、ややあって見ると、小鳥はまことに美しい寝方をしていた。二羽の鳥は寄り添って、それぞれの首を相手の体の羽毛のなかに突っ込み合い、ちょうど一つの毛糸の鞠のように円くなっていた。一羽ずつを見分けることは出来なかった。
 四十近い独身者の彼は、胸が幼ごころに温まるのを覚えて、食卓の上に突っ立ったまま、長いこと神棚を見つめていた。
 人間でも幼い初恋人ならば、こんなきれいな感じに眠っているのが、どこかの国に一組くらいはいてくれるだろうかと思った。この寝姿をいっしょに見る相手がほしくなったが、女中を呼びはしなかった。

p147

「どちらが死んだのかしら」と、鳥籠をしげしげ見ていたが、予期とは逆に、生き残ったのは、どうやら古い雌であるらしかった。一昨日来た雌よりも、しばらく飼いなじんだ雌のほうに愛着がある。その彼の慾目が、そう思わせたのかもしれなかった。家族なく暮らしている彼は、自分のそんな慾目を憎んだ。
「愛情の差別をつけるくらいならば、なんで動物と暮らそうぞ。人間という結構なものがあるのに」

p151

 だから人間はいやなんだと、孤独な彼は勝手な考えをする。夫婦となり、親子兄弟となれば、つまらん相手でも、そうたやすく絆は断ち難く、あきらめて共に暮らさねばならない。おまけに人それぞれの我というやつを持っている。
 それよりも、動物の生命や生態をおもちゃにして、一つの理想の鋳型を目標と定め、人工的に、畸形的に育てている方が、悲しい純潔であり、神のような爽やかさがあると思うのだ。良種へ良種へと狂奔する、動物虐待的な愛護者達を、彼はこの天地の、また人間の悲劇的な象徴として、冷笑をあびせながら許している。

p153

 この犬は今度が初潮で、体がまだ十分女にはなっていなかった。従ってその眼差は、分娩というものの実感が分からぬげに見えた。
「自分の体には今いったい、なにごとが起こっているのだろう。なんだか知らないが、困ったことのようだ。どうしたらいいのだろう」と、少しきまり悪そうにはにかみながら、しかし大変あどけなく人まかせで、自分のしていることに、なんの責任も感じていないらしい。
 だから彼は、十年も前の千花子を思い出したのであった。そのころ、彼女は彼に自分を売る時に、ちょうどこの犬のような顔をしたものだ。

p157

(・・・)犬にしろ、例えば一度コリイを飼うと、その種を家に絶やしたくないような気になるものだ。母に似た女にあこがれる。初恋人に似た女を愛する。死んだ妻に似た女と結婚したくなる。それと同じではないか。動物相手に暮すのは、もっと自由な傲慢を寂しみたいためだと、彼は紅雀を飼うのを止した。

p166

この本は、解説を含めても218ページにしかならない、薄い文庫本だ。価格もワンコインでお釣りがくる(2024年現在)。それなのに、この作品たちと向き合うのに、何時間、何日もの時間を要し、あれこれと頭や心を総動員した。なんとコスパの良い娯楽だろう。こんなにお手軽に川端文学の凄さと対峙できるとは、ありがたいことだ。

ご参考になれば幸いです!

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