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【読書録】『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆

今日ご紹介する本は、三宅香帆氏の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024年4月、集英社新書)。

三宅氏は、1994年生まれの文芸評論家。『人生を狂わす名著50』など、読書術や文章術に関わる著作をお持ちだ。

働いていると本が読めなくなる。そう思っている人が多いのだろうか、今年前半の出版以降、瞬く間にベストセラーとなったという。帯の「疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ」というキャッチコピーにドキッとした人も多いのではないだろうか。私もそのひとりだ。

(以下、ネタバレご注意ください。)

タイトルの「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問いに答える前提として、かなりのページを日本の読書史に割いている。明治時代、大正時代、昭和、そしてその後現代まで、と、順を追って、人々の読書の傾向を丁寧に論じている。

【明治~大正】
近代化/職業の自由化/立身出世の欲望/自己啓発の手段は修養/読書はエリートの教養
【戦前~戦後】
高度経済成長/新中産階級の誕生/エリート層に追いつきたいという欲望/自己啓発の手段は教養/読書はエリートと大衆の教養
【オイルショック~バブル期】
ジャパン・アズ・ナンバーワン/日本企業的働き方の定着/会社で出世したいという欲望/自己啓発の手段は会社研修/読書は娯楽
【バブル崩壊後~現代】
民営化・グローバル化/仕事=自己実現/仕事での自己実現の欲望/自己啓発の手段は情報/読書はノイズ

p239のチャートより要約抜粋

そして、肝心のテーマである「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」については、以下のような記述がある。

 自分から遠く離れた文脈に触れること ー それが読書なのである。
 そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、とうことだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズをたまに入れる余裕がない。自分に関係あるものばかりを求めてしまう。それは余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。
 仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。

p234 太字は著者による

 普段は残業代を支払っておいて、景気後退したときはその残業代を減らせばいい。これが日本企業における「残業の糊代のりしろ(バッファ)」と呼ばれるからくりなのである。
 残業はそもそも仕事が終わらないからやるべきものだったわけではなく、残業代を支払うことを前提として組み立てられた日本企業の必要悪だったのだ。
(中略)
 長時間労働は高度経済成長を成功させた日本企業の必要悪だったのかもしれないが、現代の私たちにとって、その働き方は合っていない。
 私たちはいまだに非効率な長時間労働を抱えて生きている。それが「仕事以外の文脈を取り入れる余裕のない」すなわち働きながら本が読めない社会をつくってしまっているのだ。

p243-244

 21世紀を生きる私たちにとっての問題は、新自由主義社会の能力主義が植えつけた、「もっとできるという名の、自己に内面化した肯定によって、人々が疲労してしまうこと」なのだ。
(中略)
 新自由主義は決して外部から人間を強制しようとしない。むしろ競争心を煽ることで、あくまで「自分から」戦いに参加させようとする。なぜなら新自由主義は自己責任と自己決定を重視するからだ。だからこそ現代において ー 私たちが戦う理由は、自分が望むから、なのだ。

p245

(・・・)私たちは自ら仕事を頑張ろうとしてしまう社会に生きている。仕事で自己実現を果たしている人が、キラキラしているように見えてしまう。しかし一度仕事を頑張ろうとすると、仕事はトータル ー つまりあなたの「全身」のコミットメントを求める。仕事はできる限り仕事に時間を費やすことを求めてくる。現代社会は働くことのできる「全員」に「全身」の仕事へのコミットメントを求めている。

p254

つまり、本書の問い「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」への答えとしては、日本企業の長時間労働の働き方や新自由主義の影響を受け、「全身」で仕事にコミットして頑張ることを自分にも他人にも期待する世の中においては、仕事に必要な情報と無関係な「他者の文脈」である「ノイズ」を取り入れる余裕がなくなるからだ、ということになろうか。

そして、本が読めなくなることへの対策としては、「半身で働く」ということを推奨する。

 半身のコミットメントこそが、新しい日本社会つまり「働きながら本が読める社会」をつくる。本書の提言はここにある。

p259

 私たちは、そろそろ「半身」の働き方を当然とすべきではないか。
 いや、働き方だけではない。さまざまな分野において「半身」を取り入れるべきだ。「全身」に傾くのは容易だ。しかし「全身」に傾いている人は、他者にもどこかで「全身」を求めたくなってしまう。「全身」社会に戻るのは楽かもしれない。しかし持続可能ではない。そこに待ち受けるのは、社会の複雑さに耐えられない疲労した身体である。
「半身」とは、さまざまな文脈に身をゆだねることである。読書が他者の文脈を取り入れることだとすれば、「半身」は読書を続けるコツそのものである。
 仕事や家事や趣味や ー さまざまな場所に居場所をつくる。さまざまな文脈のなかで生きていける自分を自覚する。他者の文脈を取り入れる余裕をつくる。その末に、読書という、ノイズ込みの文脈を頭に入れる作業を楽しむことができるはずだ。

p260-261

この半身社会を実現するためにはどうすれば?という点については、著者も率直に「わからない」とする。

(・・・)具体的にどうすれば「半身社会」というビジョンが可能なのか、私にもわからない。
 だからこそ、あなたの協力が必要だ。まずはあなたが全身で働かないことが、他人に全身で働くことを望む生き方を防ぐ。あなたが全身の姿勢を称賛しないことが、社会の風潮を変える。本書が提言する社会のあり方は、まだ絵空事だ。しかし少しずつ、あなたが半身で働こうとすれば、現代に半身社会は広がっていく。

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まず、本書の前半でかなりのウエイトを占めている、労働と読書史のパートについては、大変興味深く読んだ。そのときどきの世相、労働の状況などによって、日本人の読書の傾向は大いに影響を受けたようだが、そのような研究に触れたことがなかったので、とても新鮮だった。自分で読む本を選んでいるつもりでも、結局は、外的要因によってコントロールされているとうことになろうか。少しゾッとした。また、その時代を象徴する図書の引用も豊富だった。『西国立志編』、『出家とその弟子』、円本ブーム、司馬遼太郎ブーム、『サラダ記念日』、『脳内革命』、などなど・・・。さすがは文芸評論家だと感銘を受けた。

ところが、後半の、「働いていると本が読めなくなる」という問題提起に答える部分については、率直に言って、消化不良感が残った。もともと「働いていると本が読めなくなる」という問題提起自体に違和感を覚えていたところ、著者の示した解が、すっと腹落ちしないのだ。

私の仕事は、かなり忙しいほうだ。しかし私は、自分が「全身」で仕事にコミットしているとは感じていない。そして、忙しい仕事の合間を縫って、常に本を読んでいる。仕事が忙しければ忙しいほど、気分転換に読書をしたくなる性質なのだ。「他者の文脈」「ノイズ」を拾って、自分の脳内をかき乱すのがむしろ楽しみであり、快感であり、仕事のストレス解消の手段なのだ。

それに、他者に対して、全身で働くことを期待しているという自覚も全くない。むしろ、チームを預かるマネージャーとしては、チームメンバーが全力で働いてくれるものだという期待をしないほうが、仕事の采配もメンバーとの人間関係もうまくゆくと感じている。

そんな私は、少数派なのだろうか。もしかして、実は「全身」でかなりの無理をしていたり、他者に無理をさせたりしていながら、それに気づいていないだけなのだろうか。はたまた、私が昭和生まれのアラフィフであり、平成生まれの著者が想定した本書のターゲット読者ではない、ということなのだろうか・・・。

このように、謎が残る読書体験となったが、それもまた「ノイズ」として楽しめたし、最近の若い人の読書についての感じ方が分かり、新鮮だった。

あなたはどう感じられるだろうか。読書に興味があるすべての方に、手に取ってほしい一冊だ。

ご参考になれば幸いです!

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サザヱ
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