【読書録】『すべては「好き嫌い」から始まる』楠木建
今日ご紹介する本は、楠木建氏の『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019年、文藝春秋)。副題は『仕事を自由にする思考法』。
楠木氏は、経営学者であり、一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授。ご専門は、競争戦略とイノベーションだ。私はこの楠木氏の書いたものが大変好きで、過去に同氏のご著書2冊について、それぞれ記事をアップした。
この2冊は、いずれも、とても軽妙で面白おかしい語り口で、私が気づかなかった物事の本質を鋭く突いてきた。楽しく物事の本質を学べる本だった。
今日ご紹介する本書も、まさにそんな本だ。「好き嫌い」を突き詰めることの効用を幅広い切り口から論じている。個人の仕事論から、組織論、そして社会論へと展開する。著者のご専門である競争戦略のエッセンスも所々に盛り込まれている。
以下、とくに印象に残ったくだりを列挙してみる。
努力が続かない理由は、努力がインセンティブを必要とすることにある。インセンティブに基づく努力の最大の問題は、ネガティブな状況においてやたらと脆いこと。努力をすれば得られると思っていた「良いこと」が起きないと、努力をする目的や意義を喪失してしまう。これに対する答えは「無努力主義」「努力の娯楽化」。努力というよりも、自分で勝手に凝る。良し悪しに対する好き嫌いの決定的な優位は、ネガティブ状況にも強いこと。好きなことであれば、すぐに成果や報酬に結びつかなくても苦にならない。(p26-30)
強みと弱みはコインの両面。下手に弱みを克服しようとすると、せっかくの強みまで矯めてしまうことになりかねない。(p72)
長く続くキャリアのよりどころは、自分の中にある「好き嫌い」しかない。「これをやるとなんか調子が出るなあ」という自分が好きな流れを見つけ、それに乗る。「いま、乗っている」という感覚は、川の流れの中でしか得られない。事前に計画はできず、時間もかかるが、いつか必ずだれにでもやってくる。そのとき「あー、きたきた!」と感じればいい。(p114-115)
ブラック企業批判の大半は、好き嫌いの問題をあまりにも安直にブラック・ホワイトの良し悪し問題にすり替えている。(p139)
「シナジーおじさん」は戦略を組み合わせの問題としてとらえるフシがある。しかし、差別化と競争優位の源泉は順列にある。戦略構想力の8割がたは時間的な奥行き(論理的な時間)にある。「それでだおじさん」にはそれがある。(p151-156)
「価値においてはシンプル、プロセスにおいては複雑」が儲かる商売の原理原則の一つ(例、トヨタ、文春砲)。(p170-171)
企業変革が相対的にやりやすい状況は2つのみ。(1)いまだ確固たる内的一貫性を持ち合わせていないこと、もしくは(2)すでに長期にわたって業績が低迷して、行き詰っていること。いずれも破壊という仕事の負荷があらかじめ軽減されている。「正しさ」を犠牲にしても、方針や判断基準は「過剰にシンプル」でちょうど良い(GEのウェルチの「ナンバー1、ナンバー2戦略」の例)。変革とは創造的破壊であり、創造ではなく破壊から始まるプロセス。(p174-189)
構造改革をしようと制度やシステムから入ると、すぐに「手段の目的化」がおきる。正しい順番は「運用が先、制度は後」。制度を設計してから運用に移すのではなくて、すでに実行され、成果が出ている動きを事後的に制度化するいう発想に立つ。変革を志す人は「構造改革」の名のもとに精度設計に逃げてはいけない。まずは自ら動くこと。(p199-202)
経営者には2つのタイプがある。「三角形の経営者」は一義的に位置エネルギー(経歴や肩書き)を求める。「矢印の経営者」の生命線は運動エネルギー(実績)にある。三角形の経営者はエネルギー保存の法則の産物。位置エネルギーが増えるほど、運動エネルギーは低下する。(p208-210)
優れた組織モデルは「大脱走」。ただ一つの目的の共有、実績と能力を求心力とする矢印のリーダーの存在、自然発生的分業、仕事を通じた相互信頼、終わりがあること。(p216-219)
人間はほとんどの場合、モノやサービスの価値を相対的に認識している。必ず何らかの比較対象(「準拠点」)を(半ば無意識のうちに)設定して、それと比べて購買の意思決定をしている。売る側の立場で考えれば、自分のうるものを顧客に何と比較させるか、準拠点の持たせどころがカギになる。自分の売り物と相対化したときに明らかに正のギャップが強く出るように準拠点を操作する。直接の競合関係にある業界から少し外れたところに準拠点を持たせた方がよい。競合のど真ん中に準拠点を置いてしまうと、顧客に大きなギャップを感じさせるのは至難の業。(p243-246)
汎用的な意味を持つ言葉は便利は反面、言葉の解像度が下がる(例「大丈夫」「面倒くさい」)。(p251-254)
フェイスブックは自己愛という人間の本性を衝く。フェイスブックの広告は自分自身や自分の「友達」が発信した情報に紐づけられている。知り合いから来た情報により注意を向け、コンバージョンが上がる。また、豊かでない人は使わないから、購買力がある中産階級以上の人々が集まる。広告を打つ場として効果があるし効率も良い。(p252-261)
誰かから好かれるということは別の誰かから嫌われるということに等しい。「誰に嫌われるか」をはっきりさせ、そういう人からはきっちりと「嫌われにかかる」。ここに商売の生命線がある。罵詈雑言を浴びるたびに、自分の仕事のコンセプトの輪郭が明確になる。誰に向けて、何をすればいいのかがはっきりしてくる。(p276-277)
インターネットの時代になって、「良し悪し族」の人口構成比が増加している。匿名性のため、個人の好き嫌いや意見であるはずのことが、不特定多数の人々に共通した良し悪しにすり替わる。「(笑)」「違和感」「残念です」を多用する人は、本来は個人的な好き嫌いや意見なのに、良し悪し成分を混入し、境界を意図的にぼやかし、自分を安全圏に置き、しかも説明の手間を省いて楽をする。自分と違っていても、いちいち気に留めず、放置しておけばいい。異なる価値観と出会うことによって、自己の価値観がより明確に意識され、たまには自分の考えが変わることもある。この繰り返しで自己の価値観が徐々に練成されていく。ここが人間生活のコクのあるところ。良し悪し族はこの美味しいところをみすみす見逃している。(p283-288)
ダイバーシティ周りでも良し悪し族が出てきた。ダイバーシティを声高に主張する人ほど、実際のところは多様性に不寛容という矛盾が散見される。彼らが良いとする方面での多様性は重視する一方で、悪いとすることについては多様性を削減するのにむしろ熱心。KPIに乗っからない多様性については、無関心であるか、杓子定規な良し悪し基準で評価し、自由な働き方を認めない。(p293-295)
良し悪し族が見落としている論点3つ:(1)ダイバーシティは本来的に一人ひとりの「個人」に対応した概念。これがデモグラフィック(人口統計的)なカテゴリーにすり替わる傾向にある。デモグラフィックな特徴は個人の多様性のごく一部にして表面にすぎない。「現状は一様で同質的であるから、そこに多様性をぶち込まなければいけない」という前提が間違っている。せっかくの「いま・ここにある多様性」(=個々人が自然に持っている好き嫌い)を見過ごしている。(2)「統合」の重要性。多様性が高まるほど強力な統合装置が必要になる。統合装置はその組織に固有の好き嫌い。一般的な良し悪しでは統合装置として不十分。(3)ダイバーシティの議論は分析単位のとり方に大きく依存している。良し悪し族の手動の下にみんなが「良い」とされる方向に足並みをそろえて進んでいくと、結果的に個別組織の個性が失われる。組織内部での多様性は増しても、社会レベルでの多様性はかえって低下する。ダイバーシティは目的ではなく、結果。それぞれが自由意志で好きなことを追求する、その結果として多様性が生まれる。(p295-300)
資本主義が先鋭化した金融資本主義では、個々人の好き嫌いが捨象され、すべての価値判断がカネという客観的な尺度に一元化される。良し悪し族にとっての理想郷。資本主義は「最初」(動機)と「最後」(目的)が間違っているが、「途中」(市場メカニズム)が良くできているため、今のところ資本主義を手放せない。金融資本主義の問題は、「最初」と「最後」の間違いが、元来の産業資本主義よりも過剰になっていること。健全な資本主義の真の担い手は、理念のある会社。理念は固有のかちきじゅであり、ようするに好き嫌い。資本主義を救うのは好き嫌い族。(p312-317)
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こうして全体を読むと、「好き嫌い」というのが、個人のキャリアにおいても、はたまた資本主義の将来においても、重要なカギを握るというということがよく分かった。これと対比されるのが「良し悪し」で、インターネットによる匿名社会や、金融資本主義において、「良し悪し族」が台頭しているのが危惧される。個人のレベルにおいても、組織運営においても、「好き嫌い」をはっきりさせ、抽象化し、言語化するのがこれからの成功の秘訣だと学んだ。
そして、組織のダイバーシティについて論じたくだりは、目からウロコだった。とりわけ、「いま・ここにある多様性」と「分析単位の取り方に大きく依存している」というのは盲点だった。ダイバーシティ促進のために、会社で微力を尽くしているつもりだったが、「良し悪し族」になりかかっているのではないかと気づかされた。
また、「位置エネルギー」と「運動エネルギー」という表現がとてもユニークで、かつ、的確だと思った。また、優れた組織モデルとしての映画「大脱走」の例を挙げた箇所を読んで、思わず膝を打った。こういう比喩や発想ができるセンスが素晴らしい。
なお、本書では、構成に工夫がされていて、著者の好きなものと嫌いなものが、それぞれの話の冒頭で対比されている。これがなかなか面白い。「シュークリームとクッキー」「卵サンドとローストビーフサンド」「グリーン車とビジネスクラス」「おむすびとおにぎり」「ネットでの罵詈雑言とネットでの罵詈雑言(ママ)」など、最初は「何じゃそりゃ! そのココロは???」と謎に包まれるのだが、それぞれの話を読み進めると、オチがわかる。そういう筆者の遊び心も、とてもイイのだ!
ご参考になれば幸いです!
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