お久しぶりです、山門文治です。【エッセイ】
どうも、「マガジン営業法」の山門文治です。
と、同時に、創作大賞に挑んで散ったエッセイストだか旅ライターだかの山門文治でもあります。
ビジネス的な顔なのか、はたまた文学青年を気取りたいのか、「結局お前はどっちなんだい!」その両面宿儺的な感じが、みなさまを惑わせているのだと思います。(でも、どうじに一部の読者は愉しませてもいるんだろうなとも思っています。)
この際だから、はっきりさせましょう。
ぼくのnoteでのスタンスと今後の立ち回り方についても。
「んなこたしらねぇおめぇ誰だよ」って人にも、全部巻き込み読者にしていきます。
気になる人は中を覗いてみてください。
まず、知らない人のためにかんたんな自己紹介です。
じぶんでこんなこと言っちゃうのも恐縮なんだけど、ぼくはnoteでプチ旋風を巻き起こしました。
その結果が、ほら、いまのぼくのフォロワー数なわけですよ。
経緯については、過去にうんざりするほど記事を書いてます、そちらをどうぞ。
とはいえ、こんな疑惑の声もあがっています。
「それって全部、計算でぜんぶは、ブランドなんたらってnoteを買わせるためのマーケティングなんでしょう?」みたいな訝しげな貌も拝見いたしました。
もっと、攻撃的なのだと、「やいこら、マーケター!インフルエンサー気取って、騙くらかして裏でがっぽがっぽしてるんだろう」みたいな露悪的なご意見をいただくこともございます。
というのも、全部。
ぼくのアレのせいだと思います。
そう。アレとは、これのことです。
これね。
「予告します」なんて通知が届いて、なんだなんだって見てみたら
「あなたのビューやらスキが増えます」って通知が届いてて、
ほう!なんて思って読んでみると、「noteのビューの増やし方」「ライティング術」だとか、まぁバカ丁寧に副読記事まで用意してやがるわけです。
そりゃあ、思いますよね。
「あー、はいはい。そういうマーケティングね。しってるしってる」と。
そして、中にいる聡明なあなたはきっと思うことだろう。
「けっ 騙されるもんか!」とね。
中には、「俺が騙されねぇぞ!」といわんばかりに、対抗記事なんかを書いちゃったり、ブロックしてみたりして必死に抵抗している人もいるわけです。ぼくはブロックなんて、読者が減るようなこともったいないのでいたしませんが。
そんなかたに弁解するつもりは毛頭ございません。
山門文治の「ええ、わて商人でっせ」という両面のひとつの顔を覗かせるわけです。
でも、もうひとつの貌がうしろについています。
これが、エッセイだったり自叙伝だったり、旅記事だったり、手練手管にあの手この手の文章が犇めき合っているわけでございます。
すると、あなたは混乱するでしょう。
この人はいったい、善人なのか悪人なのか。
ひょっとして、そのどちらでも図りきれない極悪人なのではないか。みたいな疑惑が渦巻くと思います。
でも、実際に商品は売っているわけですし、
同時に、じぶんのことを曝け出してもいるわけですし。
実は、これ、ぼく自身もよくわかってないんですよね。
ぼくは、根っからの熱しやすく冷めやすい性分でして。
あっちにふらふらこっちにふらふら。よろよろ、ぐらぐら。
つまり、ぼくの頭の中がこんな感じなのですよ。
ぼくの友だちにね。
ひとりすごいのがいるんです。
天才マーケッター。
同い年ながら、彼はぼくに圧倒的な差をつけて、数億円という札束を動かしているんですよ。マーケティングという手法を用いて。
そんなすごい人がいたら、その人にあった翌日には。
「やっぱマーケティングだよな!!!」とまなじりを決するぼくがいるわけです。
そう思って、それをエンジンにエッサラホイさって、
一生懸命キーボードを叩くわけです。
すると、たしかに稼げるわけです。ここほれワンワンってね。
「わ!三連休さんのいうとおりにしてよかったぁ」と。
でも、そうしていると今度は、虚しくなって、ぼくの貌が覗くわけです。
いやいや、おれは今、友だちに教えてもらった方法で稼いでる。
ということは、なんだ?おれは一生、友達のことをすげぇすげぇってへぇこら生きなかきゃなんねぇのかって。
別に、これは、友達を憎んでいるわけではありません(ほんとはね、こういう時ちょっぴり人間は憎んでいるものです)。
そうじゃありません。
「ふたりで最強なんだろ?」と。ぼくのなかの五条悟と夏油優が問いかけてくるわけです。
だったらよ。
そんな、えへらえへら笑ったへぇこら低身してたって、なんも始まらねぇだろ、ってどやしてくるわけですよ。
そう思うと、めらめら燃えてくるわけです。
別の炎がね。たゆたう揺曳、ゆらゆら陽炎、たなびく火影。炭火がパチチ。
それが、note創作大賞だのに向かわせるわけですよ。
「いや、待たんかい!!!!!おまえにだって人生があんだろがい!
お前の人生、だれかの脇に守らっぱなしでいいのかよ。
いっしょう、そんな誰かの背中に隠れながら生きてるつもりかよ!
みっともない真似よせよな。
お前には、あんだろ、文章が。
言葉ひとつで、這い上がってみろよ。
それができなきゃお前は一生。一生。ミジンコみてえな生涯をおくることになんじゃねぇのか」
と。
奮い立たくる言葉があるわけです。
それが、めらめら揺曳しているわけです。
だからね。ぼくのこころは真っ二つですよ。
マーケティングという、新自由主義的な饗宴の花園を目指すべきか、
文学という、文化的で内省的な蒼き炎を燃やすべきか。
この答えが出ました。
ぼくは蒼き炎に身をやつします。
これは、まさに現代の文学が向き合うべきターニングポイントなのではないでしょうか。
文学は、どこへ向かうのか。
でも、売れるためにはマーケティングが必要で、マーケティング的な思考を巡らせ、従来のやり方(文学賞に応募)にとらわれず、野良で話題つくって、ひとりで祭をやっているという戦術があるのではないか。なんなら、文学というのは、もっと社会のあちら側をみつめるようなものであり、そのあちら側に安全に読者を届ける種類のアートだと思うのです。
箱庭の中で行儀正しく、折りたたまたって、本当の文学にはたどり着けないんじゃないだろうか。
そう思って、狼煙をあげました。そういう想いを背負い込んでいるわけです。(勝手にな)
だから、ぼくは、このマーケティング全盛の時代。
脳科学に裏打ちされたさまざまな根拠たちを駆使しながら、絢爛なマーケティング技術を散りばめながらも、新たなる文学のステージの到来を予見すべきではないかと。
その一助になれればと思ったわけです。
SNS全盛時代。
noteに生まれたマーケティングと文学の、あいのこ山門文治。
そんな時代だから、掻き鳴らせる文学があるんじゃねぇかと思うわけですよ。
こころの師が後押しします。
「ルールがあるゲームなら、彼らが勝つ。でも異端はルールを破って、勝手に勝つ」と。
くやしいけど、ぼくは異端の側でした。
すこしはがんばってみたけど、
それなりに自信もあったはずけど、
社会じゃエリートになんか、なれませんでした。
かれらの背中をみて、ぼくには無理だと諦めました。
あんなにストイックにはなれませんでした。
あんなに自分を切り詰めて、一本化できませんでした。
あんなに己を壊せなさそうでした。
そして、精神をねじって、ねじってやっとの思いでたどり着いた景色も想像しても、そんなにいいとも思えませんでした。
それよりも、どちらかというと傍観者だったのです。
ぼくは、ずっと社会の非当事者として覗いてきました。
いろんな街に、降りて。ここにはこんな暮らしがあるって、傍観者です。
じぶんがその暮らしのひとつになって、街を構成するひとつの灯りになろうという気持ちはあれど、それでもやっぱり当事者にはなれません。なんというか、断絶を感じてしまうのです。傍観者の側になってしまうのです。相対化されるというのか、なんというか。
すると、表れてきたのです。
そういう想いもぜんぶ、ぜんぶ飲み込んで言葉にしてやるって。
おれに言葉をよこせ、と地鳴りがするわけです。
お前の人生、全部おれの前に言葉として絞り出してやる。それもひっくるめて言葉にしてやる、という怪異が。
その怪異は、語りかけてくるわけです。
恥辱も屈辱も汚辱も、悔しさもみっともなさも、ぜんぶぜんぶ受け入れろ。
お前の人生に現代人のあれこれ苦悩のすべてを注ぎ込む。
一身にそれを受け入れよ。お前は、それを言葉にするのだ、と。
こういう怪異と契約してしまったわけですなぁ。
だから、ぼくはこれからは、文学へ向かいます。
いえ、文学部から来たのだからその森へ帰るだけです。
でも、マーケティングの手法も脳科学の手法も、心理学もぜんぶぜんぶ駆使します。
それが、この時代の異端の戦い方です。
ところで、
そういう視点で、人生をみてみると
なんだか、すこしはこんなダメでデタラメなぼくにも居場所があるような気がしてくるのです。
でね、その人生を目撃するのが、読者(あなた)なんですよ。
だから、ぼくは曝け出します。
じぶんのことも全部ね。
それは、ぼくがこの先に書く文章の中で、じっくりとご堪能いただきたいわけです。
ということは、つまり、
ぼくをフィーチャーする方法も曝け出すということであり、
それはライティング術を曝け出すこともでもあり、
というわけで、有料noteがあるわけです。
それは、ぼくの内面に触れるか、渉外的な部分に触れるかの違いです。
ぼくに接着し、ぼくから何かを掴もうというのは自由です。そこに値段がついてる時とついていない時があるだけです。
でも、ぼくはぼくのやり方でぼくの文学を貫くつもりです。
誰にも迷惑かけてないでしょ?ほっといて。
あとね、これだけは言わせて。
ぼくはね、コトバテラスという看板を背負ってるわけですよ。
ぼくの隣にいるのは、天才マーケターの三連休さん。
そして、声のお仕事なさってる石井さん。
すごいお二人。
こんなすごい人たちと肩をならべて肘這ってしまっているわけですよ。
「え?山門文治見劣りしてない?w」と、気恥ずかしくなるわけです。
でも、ぼくの言葉を信じて、ふたりのことは裏切れません。
だって、今もおふたりのプロフィールには(抜けてもいいのに)コトバテラスをまだ剥がさないでいてくれてるのだから。
だったら、納得するようなもん書いてみろって言いたいんでしょ?だから、今、それをあの手この手で模索して・・・つまり、今後に乞うご期待!!
とまぁ、こんな現象巻き起こしておいて、無責任にせせら笑いながらエッセイ書いてるよと思った、あなた!鋭い。
マガジン営業法。いいじゃないですか。真似してみたください。
別にあなたでもできますよ。ぼくのやり方をやや荒い形で模倣したあんのすけさん(ぼくの友人)が1ヶ月で600フォロワーくらいになっています。
フォロワーもある程度稼げた!
しかも、相互フォローじゃない!ハックしたぜ!
数字が積み上がるかもしれない。
問題はその後なんです、集めたフォロワーたちとなにするか。
ぼくは文学というひとつの出口(入口でした)を見つけましたよ。
けど、真似した、なかなか売れないねぇ。なんでだろう。
それはね・・山門文治が相談に乗りますよ。くっくっく。
さいごに
ここまで読んでくれてありがとうございます。
もし、この話を読んで面白いと思ってくれた人に
一個だけ頼みがあります。
コメントしてほしいです!欲を言えばフォローも!
ぼくは、これからこういう活動(文章を書く仕事)で本気で食っていきたいと考えています。
だから、今後のためにもあなたがどんな人物で、どんな感想を抱くのかということは知っておきたい。
ぜひよろしくお願いします!!