見出し画像

ところで、愛ってなんですか? [第9回]

デビュー歌集『夜にあやまってくれ』から現在にいたるまで一貫して「愛」を詠みつづけてきた歌人・鈴木晴香さんが、愛の悩みに対してさまざまな短歌を紹介します。月一回更新予定です。バックナンバーはこちら

私はこの街に生まれたのではない。
この街の海をまだ見たことがないし(あの少年との約束をまだ果たしていなかった。私はいつもそうだ)、通りの名前も、駅の名前も、自分が使うところだけをようやく、といった感じで覚えているだけだ。だからたまに違う道を選ぶと驚いてしまう。この道とこの道はこんなところで交わっていたのか、と。
生まれた街ではそうではなかった。地名は景色と結びつき、駅と街は頭の中で重層的に繋がっていた。地図は外側にあるのではない、私の内側にあったのだ。
親のことを思い出すときには、その地図が自然と開かれる。母と行ったデパート。地下鉄がポイントを過ぎるときには車内の電気が一瞬消えた。父と行った川辺の公園。遠くに踏切の警笛が鳴っていた。
いまでもそこに辿り着ける。目を閉じたまま。

ドアのベルがゆるく鳴る。バンドのライブか何かで買ったらしいロゴの入ったTシャツから、柔らかく白い腕が伸びている。シャツは体のサイズよりだいぶ大きいようだ。髪を後ろで無造作に縛って、日焼け止めを塗った顔は薄紫に光っている。彼女は、よいしょ、と椅子に腰掛けた。
「もうすぐ、私、母親になるんです」
「それは素敵なこと。ね?」
「待ち望んでいた赤ちゃんです。だけど、母親になるということが、素直に言えば、怖い。こんな気持ちになることが申し訳なくて。誰に対して申し訳ないのかもわからない。もしかしたら自分に対して、なのかも」
そう言って彼女は膨らんだお腹に手を置いた。

親になること。喜びの大きさに比例するように、その怖さはあるだろう。人生をすっかり変えてしまうものとの出会い、自分の中にもうひとつの命があることへの畏怖。

名前持つ前のわたしに呼びかけしちちははのこゑ聞きたし今宵

吉澤ゆう子『緑を揺らす』(青磁社)

まだお腹の中にいて私が私になる前、父でも母でもなかった頃の父と母。それはみんなが〈未満〉であった頃。まだ若く、未来はあまりに膨大であった。母や父は、私になんと呼びかけてくれていたのだろう。会う前から、私に会いたいと思ってくれていたふたりの声を、小さな小さな耳で確かに聞いていたはずなのに、覚えていない。その声をいま聞きたい。
励ましてくれるとか、慰めてくれるとか、そういうことじゃなくていい。声で抱きしめてくれるような、そんな日が確かにあったこと。そのことが、この不安や喜びが私だけのものではないと、教えてくれるような気がする。

子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る

河野裕子『桜森』(ハンナ)

赤ちゃんが生まれれば、それまでの日常を思い出せないくらい目まぐるしい毎日が始まる。朝から夜まで、寝ている間も耳をそばだてて、子どものことを考え、世話をし続ける。終わりはなく、他のことを考える余裕もない。抱いて、ミルクをやり、頭を撫で、鼻を拭き、涙を拭く。ずっと躰のどこかが触れ合っている。そんな日々に、どこまでが自分でどこまでが子か、そんな境界線もなくなってしまうようだ。
「子」「われ」「子を抱き」のリフレインには、子育ての忙しさや混沌と同時に、恍惚も含まれている気がする。私が赤ちゃんになったみたい。私が赤ちゃんに抱かれてあやされているみたい。そんな恍惚。

「赤ちゃんに抱かれてるって思えば、安心して眠れるかもしれません。お腹の中にいる今だって」
「構えなくていい。子供と一緒に夢中になって生きて、ゆっくり大人になればいいんじゃないかな」

彼女は頷いたまま静かな笑顔でお腹を撫でた。それからずっと撫で続けている。沈黙とは、つまり時間のことだった。
「あなたがさっき怖いって言ったその怖さは、それだけではないってことね」
「それこそ境界線のないような怖さで、どのくらい愛せばいいのか、愛しすぎてしまうような気もするんです」

苦すぎる麦茶があったいつだって母は力のかぎり愛した

鳥さんの瞼『死のやわらかい』(点滅社)

親と子の愛はときに過剰さをもって現れる。生まれたばかりの時、子は無力なのだから、力の限りの愛は、絶対的に必要な庇護であったのだ。時が経ち、子どもが成長するにつれて、その愛は苦しさをもたらすものになるかもしれない。力のかぎりであることはわかる。それが愛だということも。だから余計に怖いのだ。
苦くなるまで煮詰められた麦茶は、愛の濃度そのものだ。
「苦すぎると言えること。言い合えること。それができればいいのだけど」

そのとき、からんとドアのベルが鳴った。私より彼女が先に声を出す。
「どうして? どうしたの?」
「雨、降りそうだったから」ドアに立つ男は、そう言って笑いながら、傘を高く掲げた。片方の眉をあげて、彼女に続けて私にも会釈をする。大きめのメガネをかけて、湿気のせいだろうか、髪は緩くカーブしている。
私は彼にもお揃いのコップを差し出して、冷たくした水道水をたっぷり入れた。「よかったら一緒に座ってください。ちょうどよかった」

両親が出会ったという群青の平均台でおやすみなさい

笹井宏之『ひとさらい』(書肆侃侃房)

両親が出会わなければ、子はこの世に存在することはなかった。その奇跡のような出会い。とても細く、歩くのがやっとの平均台で、こちらからは母が、あちらからは父が歩いてくる。平均台に他の道はないのだから、出会うことが運命だった、とも言える。平均台は落ちやすいのだから、出会うことは偶然だった、とも言える。そんな平均台に寝そべり、目を閉じてみる。もう一度生まれ直すみたいに。ああ、ここが始まりだった。そう思う時、生まれる前から、生まれることが決まっていたみたいに思える。
群青が海のように眩しい。すべての命の始まりも海だった。

「僕たちは、中学で出会いました。2年の時です。そのときにはもう決まっていたのかな」
そう言って、隣の大きなお腹を撫でた。二人の手が重なる。

そんなにいい子でなくていいからそのままでいいからおまへのままがいいから

小島ゆかり『獅子座流星群』(砂子屋書房)

「この歌を、どんな日にも思い出して。いいことがあった日にも、辛い日にも」
口から一気に溢れでたような短歌。子への願いであり、自分自身への祈りでもあるようだ。そのままのおまえを受け止めるためには、親自身もまた、そのままでなくてはならないから。そんなにいい親でなくていい。そんな気持ちでいればいい。

***
「予定日は、来月の末です」
「もう名前は決まってるの?」
「今日教えてもらった短歌の中から、一文字もらおうかな」
「それはきっと素敵な名前になる。ゆっくりふたりで考えて」

夕暮れの雨は、窓の外を油彩画に変えた。ふたりはビニール傘の端と端を重ねながら歩いてゆく。
親と子の間には長い年月が横たわることになるだろう。ずっと先の未来を信じること。そこに愛が光っているような気がした。

テレビカードを父はほしがる「面白いの」と聞けば「見えない」すべて風の日

竹中優子『輪をつくる』(角川書店)

いつか、親は年老いる。
入院して、目がよく見えなくなった父が、それでもテレビを見続けるのは、騒がしく愛おしいこの世界と繋がっていることの証明だからだ。それならいっぱい買ってあげる。この世への通行手形のようなテレビカードを。
いつかそんなふうに、子が親を愛してくれたら。
ずっとずっと遠い。でもその未来まで、平均台は続いてゆく。

***
〈BAR愛について〉の看板を仕舞う。
私も今、平均台の上を歩いているんだろうか。私だけではない、ひとりひとりの人間がそれぞれの平均台を。
いつもより慎重にまっすぐに歩いて、コンセントを抜いた。看板の電気が消えると、街灯の明るさが際立った。月は見えなかったけれど、きっとそこにある。

鈴木晴香(すずき・はるか)
1982年東京都生まれ。歌人。慶應義塾大学文学部卒業。2011年、雑誌「ダ・ヴィンチ」『短歌ください』への投稿をきっかけに作歌を始める。歌集『夜にあやまってくれ』(書肆侃侃房)、『心がめあて』(左右社)、木下龍也との共著『荻窪メリーゴーランド』(太田出版)。2019年パリ短歌イベント短歌賞にて在フランス日本国大使館賞受賞。塔短歌会編集委員。京都大学芸術と科学リエゾンライトユニット、『西瓜』同人。現代歌人集会理事。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?