ところで、愛ってなんですか? [第6回]
風は相変わらず強い。
風は目に見えない。それなのに確かにそこに存在して、人を撫でたり、屋根を壊したり、海に波を立てたりする。
愛も目に見えない。愛はどんな形の手で人を撫で、肉体や心に波を立てているのだろうか。あるいはどんな温度の手で。
「恋人をふってしまったんです」
そう言って表情を失ってしまった彼女に、冷たくした水道水を出した。ここは、BAR〈愛について〉。BARといってもジントニックもシャーリーテンプルも用意していない。
「どんな理由で?」
「嫌いになったわけじゃないんです。でももう友達にしか思えなくなって、なんか違うんじゃないかって。恋人への愛と友達への愛、何が違うんですか。友達への愛って、なんですか」
秘密でもなんでも話せる友達。毎日自転車を押しながら一緒に帰る友達。どれだけ夜遅くまで一緒にいても、まだまだ遊び足りない、そんな友達。
その相手を思う気持ちは、恋愛とは何が違うんだろう。だってこんなに好きなのに? こんなに一緒にいたいのに?
教室。友達がきて、一緒にテーブルをくっつける。そこで弁当を食べたり、ノートを見せあったり、雑誌を広げたりする。くっつけてできたテーブルはさっきの倍はあって、まるでこの部屋に新しい大陸を生み出したようだ。そこからなんでも始められそうな新世界のひかりがテーブルに降る。
テーブルだけではない。友達がやってきたあとの心もまた、新しいサイズに変わっている。もうひとり来れば、もっと広いテーブルに。もうひとり来れば、もっともっと。そうやって、関係はどんどん新しい大きさを得る。
「好きです」と告白しなくていい。そこに、友達への愛の自由さがある。
その自由さが、恋愛がもたらすせつなさとは相反するらしい。好きだと言えない。「会いたい」という四文字が打てない。触れたいのに触れられない。そんなせつなさ。
「そのせつなさが、欲しかったのかもしれない。欲張りなんですかね」彼女は、ほくろのある唇を小さく動かした。
友達との関係は、今この瞬間だけに存在しているのではない。仕事や引っ越しで疎遠になったこともあったけれど、何年、何十年か経ってまた、会って話をするようになることだってある。
あるいはもう会わなくても、友達って言えるのかもしれない。
卒業するまでは、転職するまでは、結婚するまではあんなにちょくちょく会っていたのに、そのあと不思議なくらい一度も会っていない。また会おうって言った言葉は嘘じゃなかったけど、それぞれの人生に、それぞれの時間が流れてしまったみたいだ。だけどその顔を思い浮かべれば、今も友達だって思える。きっとどこかの土地にその人は生きて、ここに流れているのと同じ時間を過ごしている。
月に行けなくても、そのひかりに触れているだけで、月がそこにあるってわかる。その確かさと同じように、友は生きている。
心の中で生きている友と小田原で現実に生きている友が、ドッペルゲンガーのように同時に存在している。「実際小田原でも生きている」に、思わずにやりとしてしまう。あまりにも正面突破で当たり前のことだから。
心の中にいる友は、あの頃の年齢のまま思い出の中を生き続けている。一方で小田原の友は、掃除もするし、税金も払うし、あの頃よりもっとたくさんの喜怒哀楽を経験しながら生きている。
いつか友に再会するとき、心の中の友と小田原の友はどんなふうに出会うだろう。
友達を思う心、でもそれは、いつだって手放しで楽しくて親密なものとは限らない。
自撮りして笑い合う。温泉に浸かりながら明日の予定を確かめ合う。そうやって一緒に旅をしていても、その実その人をこころからは好きではなかった。ちょっとした言葉遣いに、ちょっとした行動に、異和を感じる。それでも嫌いだって遠ざけることは簡単ではない。
ざらざらと吹き抜ける風の音は、心を波立てている風の音なのかもしれない。
嫌いだって言ってしまえ。あるいは風はそう囁いているのか。
「私、好きじゃない友達とタイムカプセル埋めてさ、そこに「本当は大嫌い」って書いたんだ。十年経っても誰も掘りに行かなかったけど。まだ埋まってるのかな、駅前の三角公園」
友達への愛のほうが一層苦しいことだってある。告白しなくていい代わりに、よほどのことがない限り「別れよう」とは言えないから。そこで生きていくには、しばらくのあいだ友達として振る舞うしかない。そんな檻だって確かにある。
その関係がどうしてもどうしても苦しかったら、どうすればいい。
あいつは業績を上げたらしい。あいつは高い酒を開けている。友達という光は眩しくて、目を逸らしていても見えてしまう。
そんなときは、ちょっとした花を買って、妻と心置きなく話をする。自分自身の不甲斐なさからそうやって逃げる。そういう日があっていいじゃないか。
抱き合うように繋がっていた雲が流れて消えたあと、そこに残っているのは真っ青な空。寒くて寂しい青。
だけど、青空は無ではない。そこにはどんな雲が遊びにきてもいい、両手を広げたような空間がある。窓いっぱいに満ちる青。
友達だって、一筋縄ではいかない。恋だって、ままならない。同じ形の雲は二度と現れない。
友達や恋人。言葉を当てはめればそうかもしれないけど、ふたりにはそのふたりだけの関係があって、その関係だって、毎日、毎秒、移り変わってゆく。
今は離れてしまっても、辛い関係だとしても、風の吹いてくるほうを眺めれば、そこには面白い形の雲がいっぱいあるはずだし、流れていった雲も新しい形を作ろうとしている。
目の前の青色は、そのすべての可能性だ。
***
「ふってしまったことはもう取り返せないけど、でもまた新しい形で会えるかもしれない」
「ほんとうのことを言うと、さっきあなたが来る前にお店にいた人、あなたの恋人だったかもしれない」
「どうしてわかるの」
「どうしても。風下に行けばまだ間に合うかもしれないよ」
「どうしようかな。でも追いかけるのはやめます。風に押されてしまったら、それはそれでいいけど、」
彼女は笑いながら水道水を飲み干した。
まだ間に合うかもしれない、というのは、私自身に言った言葉かもしれなかった。取り戻したい恋のことを、無くしたビニール傘のことを、私は思い出していた。
***
看板は横倒しになっていた。こんな風の日に外に出していたんだから当たり前だ。初めからわかっていた。わかっていて、だめになるのを見たい。そんな不条理なこころが人を突き動かすこともある。
風よりもこころのほうがずっといたずらだ。