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小説「弦月湯からこんにちは」第14話(全15話)
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第14話
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9月になった。弦月湯での暦くんの個展「みんなの愛と生涯」が始まった。ツァイトウイルスの影響のため、時間による入湯制限を設けながらの個展だったが、常連さんや離れに住むアーティスト仲間をはじめ、SNSで知ったという方々も多くいらしてくださった。
お客様の邪魔をしてはいけないと、私はいずみさんと交代で番台に詰めている。個展を見た風呂上がりのお客様が皆、ぴかぴかの笑顔で挨拶してくださる様子がただただ嬉しかった。
番台の前では、加藤さんご夫妻が笑顔でこちらを真っ直ぐ見つめる写真が出迎えてくれる。
「母さんのあんないい笑顔、写してくれてありがとな」
加藤さんのお連れ合い、剛さんは、暦くんにそう言いながら握手を求めた。その横で、加藤さんは恥じらいながら微笑んでいる。頬が赤いのは、湯上がりのせいだけではないのだろう。
いつもは土曜日にいらしてくださる時任さんご一家も、仕事を早く終わらせて初日、水曜日の夜にいらしてくださった。
「壱子さん、これ、暦さんに個展のお祝いです」
そう言って、聡さんは向日葵のアレンジメントを持ってきてくださった。
「ありがとうございます。番台に飾らせていただきますね。暦くんにも伝えます」
時任さんご一家の写真は待合室に飾ってある。
「壱子さん、よければ写真撮ってもらっていいかしら」
「もちろん!」
なずなさんからスマホを渡されて、私は笑顔で構える。セピア色の家族写真の前に立つ、時任さん一家の笑顔。ふと、前の店でみんなとチェキを撮っていた頃を思い出した。誕生日を祝うクラッカーの音も、どこかで聞こえたような気がした。あの頃も、今も繋がっているのね。
離れに暮らす、あんぱんにかじりついていたアーティスト、悠平くんもお友達を連れて来てくれた。風呂上がり、悠平くんたちは興奮しながら番台に駆け寄ってきた。
「山口さん、俺らもグループ展開くことって出来ますか?」
「日程に空きがあればいつでも構わないですよ」
「ありがとうございます! たとえば、会期中の定休日に風呂場でライブ開くとかもありですか?」
「マイクとか電化製品は使えないけれど、それでよければ。なんでも好きに使ってもらって大丈夫です」
「やった! ありがとうございます。音校の同級生に声かけてみますね。ちょっと、相談してきます!」
悠平くんとお友達はラムネとポカリスエットを買うと、待合室のソファで熱く語り始めた。暦くんの個展がきっかけとなって、悠平くんたちも思いのバトンを受け取って走り始めたのだろう。弦二郎さん、あなたの思いはいまも若者たちに受け継がれていますよ。徹夜でのあの会議以降、待合室に飾られるようになった弦二郎さんの写真を見上げて、私は心の中でそう呟いた。
「壱子さん、お先に」
風呂上がりのいずみさんが、番台に戻ってきた。
「お疲れ様です」
「大盛況ですね」
「本当に」
「壱子さん、個展は見て回りました?」
「搬入は暦くん手伝わせてくれなかったので、まだなんです」
「そうなんですね」
いずみさんはなにかを伝えたそうな様子になった。ややあって、そのままマスク越しの笑顔になった。
「あと15分で今日の営業終了なので、そしたらゆっくりお風呂入ってください。ゆっくり、見てやってください」
「ありがとうございます」
いずみさんは目で微笑み、待合室の雑誌の整理を始めた。
「壱子さんが弦月湯にいらしてくださって、本当によかったです」
「私の方こそです。いずみさんに拾っていただいたおかげで、新しい人生を始めることができました」
「……そうおっしゃっていただくと、身に余る思いです。でも、それは私も同じなんですよ、壱子さん」
「そうなんですか?」
「ええ。本当のことを言うと、祖父が残してくれたこの空間の重みに、ずっと押し潰されそうだったんです。これからどうやって続けていこうか、考えるだけで目の前が暗くなっていました。けれど、壱子さんがここにいらしてくださってから、新しい風が吹き込んできました。暦にとっても同じです。あの子、私が見てきた中で今が一番生き生きしています」
「そうですか……」
「私にとっては、壱子さんは家族も同然です。これからも、どうぞ末永くお願いいたします」
いずみさんは番台に向き直って、深々と頭を下げた。私も背筋を伸ばし、頭を下げる。
「……ありがとうございます」
お客様を見送って、待合室と脱衣所を簡単に掃除してから、風呂に入ることにした。脱衣所では、牛乳を飲む子どもたちの写真が出迎えてくれた。
裸になり、タオルで前を隠して風呂場に向かう。
「わあ……」
風呂場は、いつもとは別世界になっていた。セピア色の写真があちらこちらに飾られている。この空間での個展やグループ展は最近見慣れてきたはずなのに、私はなんだかどきどきした。
薔薇の香りのボディソープとリンスインシャンプーで体と頭を洗い、湯船に浸かる。向かいには、番台で本を読むいずみさんの写真があった。いずみさんを包む静謐な空間がそのまま切り取られているようだった。ああ、いずみさんらしい、いい写真だなあ。そう思いながら、私は湯を掬って顔を洗った。
後ろにも、なにか飾ってあるのかしら。そう思いながら振り向くと、そこには自分の笑顔が飾られていた。私は驚き、湯船で腰を浮かす。膝立ちになり、写真に向き直る。
そこには、色鮮やかにカラーで印刷された自分の笑顔が飾られていた。
どきん、どきん。心臓が生き物のようになった。
よく見ると、写真の下にはタイトルと言葉が添えられている。タイトルは、「献呈──Widmung」とある。
Du meine Seele, du mein Herz
あなたは僕の魂、僕の心
───シューマン作曲《ミルテの花》より
シューマンだ。《女の愛と生涯》を作曲したシューマンだ。暦くんと私の心をつないでくれた、シューマンだ。私は、言葉をゆっくりなぞった。あなたは僕の魂、僕の心。文字が涙でぼやける。
ああ、これが、この空間丸ごと全部が、暦くんの愛と生涯そのものなんだ。暦くんは、ようやく答えを見つけられたんだ。ようやく答えに辿り着けたんだ。
湯を掬って、顔を洗う。頬を伝うのはお湯なのか、涙なのかわからなくなった。
風呂を上がると、待合室のソファに暦くんが座っていた。私は向かいに座った。
「……見ました?」
「見ました」
ふたりを柔らかな沈黙が包んだ。
「……面接で初めて壱子さんに会った時に、決めたんです。この人が、自分の心の人だって」
暦くんの言葉を、私は全身で聞いた。
「伝えるつもりはありませんでした。自分の思いを込めたマグカップを渡して、そこで気持ちに区切りつけるつもりでした。でも、ずっと壱子さんのこと、忘れられませんでした。そしたら、ある日、家に帰ってきて流しを見たら、壱子さんにあげたマグカップあるじゃないですか……! あれ、マジでびっくりしましたよ」
「気付いてたんだね、マグカップ」
「気付きますって。世界にひとつしかないマグカップですから」
「そうなんだ……」
暦くんを見つめる。暦くんは、目を合わせたあと、横を向いた。頬が赤い。しばしの沈黙の後、暦くんは再び口を開いた。
「それからしばらく、戸惑っちゃって、挨拶できなくて。ようやく覚悟が決まったのが、徹夜会議の前の日です。逃げずに、もう一度、いまの自分で壱子さんに向き合おうって決めました」
あの日の食卓を思い出す。大きなおにぎり。鍋いっぱいの豚汁。そして……かすかに震えていた暦くんの手。
「そしたら、あれよあれよという間に怒涛のように現実が変わっていって。自分、心を追いつかせるのに必死だったんですよ」
「暦くん、落ち着いているように見えてたけど」
「見えてるだけです。実際、必死でした」
「そうだったんだ」
「気付いたら、壱子さんとふたりで仕事する機会が多くなって、これはどういうことだ? 夢でも見てるのか? って思う毎日でした」
暦くんは大きく笑った。麦わらのルフィの笑顔。最強、無敵の笑顔だ。
「夏に《女の愛と生涯》の話をしたの覚えてます?」
「うん」
「あの話したの、壱子さんが初めてだったんです」
「そうだったのね……」
「壱子さんが『自分だけの生涯を、愛を大事にしていい』って言ってくれて、それですごく、自分、気持ちが楽になったんです。ずっと言ってもらいたかった言葉をかけてもらえて、心がめちゃくちゃ楽になったんです」
胸が熱くなった。
「ばあちゃんが好きだった《女の愛と生涯》は、自分にとってずっと重たい問いかけだったんです。ずっと答えが見つからなくて、見つけることも諦めて、毎日をなんとなくやり過ごしていくことだけに集中していました。それでいいんだとも思ってました。でも……壱子さんのおかげで、自分なりの答えを探す勇気を持てたんです」
暦くんは、私を真っ直ぐに見つめた。私も見つめ返す。
「自分は、壱子さんのことが好きです。ずっと一緒にいられたらいいと思っています。ずっと一緒にいたいです」
私は微笑み、暦くんを真っ直ぐ見つめながら右手を差し出した。暦くんも、手を差し出す。
「どうぞ、よろしくお願いします」
暦くんと私は、しっかりと手を握りあった。
「……こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
そして、私達は子供のように笑いあった。
「壱子さん、シューマンの《ミルテの花》、聞いてみませんか? 《女の愛と生涯》と同じ年に作られた歌曲集なんですけど、一曲目が〈献呈〉なんです」
「聞いてみたいな」
「台所、行きましょうか」
「そうしましょう」
待合室の明かりを消す。今日も一日が終わる。いつもと同じ一日が。そして、いつもとはちょっぴり違う一日が。
(つづく)
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つづきのお話
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