諦めの境地 │ 見える世界が広がる
感情ってとても厄介だ。
喜びや期待に胸を躍らせるばかりならいいのに、そういうわけにもいかない。
怒り、悲しみ、嫌悪といった負の感情は頭と心を容易に支配し、考え方、発する言葉、態度にあらわれ、人間関係に悪影響を及ぼすこともある。
私もそんな負の感情に支配され続けてきた一人。
いつも何かを恨んで、怒って、壊して、絶望していた。
でも、今思い返すと当時の私ってとてもパワフルだったな、なんて懐かしくなる。
年齢を重ねてから気が付いたけれど、怒るってとても疲れる。
仕事に感情を持ち込むべきではない。
そうわかっていても結局人には感情があって、どんなに自分が正しくても、筋が通っていても、根拠を示すことができても、案外好き嫌いやそのときの機嫌で決まることって多い。
不毛なやり取りだったな、理不尽だな、なんて大人になってからというもの納得のいかないことの方が多いけれど、そんな経験を繰り返すことで怒りや悲しみの感情を押し殺すことを覚えていった。
この5~6年、職場での私は優等生だ。
いつもニコニコして、頼まれたら断らなくて、愚痴も不満も一切こぼさなくて、その場にいない人の悪口をいう輪には入らない。
とにかく素直で一生懸命に仕事をこなす。
会社からしたらこんなにありがたい存在はいないんじゃないか、なんて自分でも思う。
こうして優等生を演じていると、感情をまき散らしていた昔よりも人間の汚さがはっきりと見えるようになってくる。
断らない人には理不尽なお願いをしていいと思う人がいる。
怒らない人には何を言ってもいいと思う人がいる。
不満を言わないのは現状に満足しているからだと思う人がいる。
悪口を言わせようとけしかける人がいる。
こんな人たちと接する日々を過ごして怒りがわかないわけがない。
でも、やるべきこと、やりたいことがたくさんあるから、親しい関係になりたくない人のために無駄な体力は使わない。
そう決めた。
だから怒りの感情は心の奥底にしまい込んで、諦めることにした。
こんなに性格の悪い人だったのね、どうせ言ったところで変わらない、って。
感情を隠すのも、期待することをやめるのも、諦めるのも、最初は上手くできなかった。
それでもそうせざるを得ない状況に何度も直面して、いつのまにかそれが自然にできるようになっていた。
こんなことを書き綴っていると悲観的な人に聞こえるかもしれないけれどそうじゃない。
人間関係のいざこざとは無縁になったし、怒られることもない。
都合よく使われていたこちらが見放す姿勢を示すと途端に優位に物事が進むことだってある。
そしてなによりも、心の奥底にため込んだ怒りや悲しみの貯金も、見えるようになってしまった人間の汚さも、「書くこと」を仕事にする今の私にとっては大切なアイテム。
感情に任せて生きていたころはとても視野が狭かった。
自分の主観でしか物事を捉えられなくて、あまりにも自分本位でわがままで、共感してもらえる文章を書くことなんてできなかった。
苦しかったし悔しかった。
そんな日々を乗り越えて、感情を押し殺して諦めの境地に達すると、見える世界がちょっと広がった。
今、昔の私なら怒り狂っているような状況に直面している。
内心穏やかではないけれど、体力温存のために必死で足掻くのは諦めて「ネタの提供をありがとう」くらいに捉えて明日からも優等生を演じようと思う。
図太く、強かに、自分のために生きる。