私の特殊な事情
9月は私にとって特別な月だ。自分の誕生日で始まり、妹の命日と秋の彼岸が来る。好きな夏が終わり、苦手な冬の気配がどんどん近づく。
妹は生後50日で亡くなった。9歳のとき2人姉妹で生きていく夢を見た私は、10歳で急に一人っ子の現実に逆戻りした。妹が生きていたらどうなっていただろうと、子どもの頃は何年かおきに想像していたけど、大人になってしなくなった。
だから、誰かが親になる報せを聞くたびに私が祈るのは、子が健康に生まれ、健康に大きくなってほしいということだけだったりする。今の医学では、そんなことは当たり前なのかもしれない。だが私にとっては、人が生きていく中でのリスクや危険を超えて回避して成長する、それってすごいことだ。もしその子が結婚したり親になどなった日には、もう奇跡的でなんて言っていいかわからない。これがひとつめの特殊な事情。
一方で、生きていることにはあまり意味がないと思う。人生は死ぬまでの暇つぶしっていう言葉もあるけどホントにそうだと思う。なんで生まれたのかも何のために生きているのかもわからない。けど、子に先立たれた母を見て、勝手に命を絶ったり親より先に死んではいけないとだけ強く信じている。これも私の勝手で特殊な事情。
生きることは無意味だけど生き続けることが重要だ。でも人生そう思えない時もあるし、そう思えない人もいる。命はひとり一個しかなくて、そういう時に間違えて失ったらいけない、やり直せないから。だから私は私が信じる生き続ける大切さについて少しでも伝えたり周りに吹聴していきたい。
伝える方法はいくつかあるけど一番強く深く伝えられるのは自分が親になることなんだと思う。あるいは教師になってたくさんの教え子に自分の背中を見せていくのも影響力がありそう。私はどちらの仕事をする力もないから、ただ自分の思うように生きて出会った人に手当たり次第にこうやって言葉をぶつけるみたいにして、何も残せないんじゃないかという不安と戦っているのかもしれない。そのへんも私の特殊な事情。
私は生きることを肯定したい。人間であることを肯定したい。人間らしくあることを肯定している人の素晴らしい考えや彼らが残した作品を広めたい。そして生きてる限りは自分も人間らしく生きたい。それらが、アートに仕事として関わろうと思った動機だった。アートは人間が人間であることを確かめる作業だ。なんでかわからないけどやる、それは人生と重なる。アートは人間がわからないことを考えるための余白だ。わからないことはときに困りこそすれ悪ではない。私たちは隣の人間がわからない、家族もペットも隣国の人も本心はわからなくてもなんとか共に生きていくことはできる。
私の人生は暇つぶし度を増していく。それはとりもなおさず生を肯定するため命を肯定するため人間を肯定するための選択に因る。小さい瞳が希望に濡れた光を私に投げかけてくれることを喜びとともにまっすぐに受け止めたいから。そうやって生まれてきた人間の仕事は、人に感謝されたり、歴史を変える方法を考えることのはずだから。私は寂しいけれど悲しくはない。なぜなら、すべての仕事(人が人生で為すこと)は線状につながっていき、良い影響も悪い行いも何ひとつ消えないでその人の名前のもとに連なっていくと教えてくれた先人がいたから。ちっとも悲しくない。人が為すことは受け入れる。そしてこの先に何がつながっていくのか少し楽しみですらある。でもしんどい。冬も来るし。ジンの匂いが鼻をかすめた気がする。
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