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氣功は科学的に正しいか正しくないか ~真の科学的思考法について~
氣功を信じますか
氣功の話をすると「私は信じません」という反応があります。現代は科学の時代なので、氣功などは胡散臭いものと思われるのか、嘲笑的態度で臨まれることも少なくありません。では、氣功は科学的に誤りなのでしょうか。その議論の前提として、そもそも科学とは何かを考えたいと思います。
科学とは何か
科学とは、計量できるモノのみを扱った学問であると説いたのは批評家の小林秀雄です。現実は感情など計量できないものが多いのに、それらを無視した。複雑で広大な世界を、非常に単純で狭い世界の中に押し込めた。それが科学です。この計量できるということは、大変わかりやすく扱いやすいものとなります。そのため物質的な世界での発展は、人類が月にいくなど、非常に早いものとなりました。しかしその一方で、失われたものや誤った方向に進んだものも多く、精神的な世界での進歩はほとんどありませんでした。例えば現代医学では、精神疾患の病や症状は多く生み出されていますが、それを根治させる方法はほとんどない状況です。このわかりすく目に見えるものだけを扱う危険性については、別途述べる(下にリンク追記)として話を戻します。科学は理性的に見えて、その実、現実に在るものから目を逸らした偏ったもの、ただ単に「計算できるものを扱う」という方法論にすぎないのです。ということは、氣功は科学的にどうか云々ということではなく、科学の対象外である、ただそれだけの話となります。現時点で氣功に関しては、経験する。自身の体感こそが、その人個人にとっての真実、正しいことであるといえます。
真の探求者の姿勢
それでは科学のこの「計量できるものだけを扱う」という方法論は、真実を探求するうえで正しい態度といえるでしょうか。例えば、可視光線の波長は、0.38~0.78マイクロメートルの範囲でしかありません。私たちが見えている世界は現象世界の一部で、それイコール現実世界ではないのです。五感では捉えられない世界のほうが膨大にあるのです。見えない世界、計算できない世界をないものとした方が単純で簡単です。それを研究することは非常に複雑で難しいのです。しかし、逃げずに真実に向き合う科学者もいます。前回既出の、氣功など目に見えない世界の研究所を作られたソニーの井深大さんや、祈りを研究した筑波大学名誉教授であった村上和雄氏もその一人です。そういう人たちが、無から有を発明する、真の研究者であり、創造者になるのです。
科学の発展への期待
最近は、真の研究者による絶え間ない探求と、測定装置等の進歩によって、見えない世界も測定できるようになってきました。科学の対象外だった氣功も、計測でき、その全貌が明らかになる時代が来るかもしれません。私の氣功のお客様には、氣功で炎症が治まったり、血液検査の値が改善されたりしている方が多くいらっしゃいます。これらについても明らかになるよう、科学の発展に大いに期待します。
計量できない世界を見直す
不思議なものに出会ったとき、どのように接するのが真に理性的といえるでしょうか。未知のものに対して、計測できないからという自らの限界を棚に上げて、否定したり排除したり、あまつさえ嘲笑的な態度をとることは適切なこととは思えません。野蛮な行為ともいえます。精神世界の事柄を、時代遅れのものとするのもまた然り。偏った進歩の弊害が大きくなるばかりです。わからないものはわからないと素直に認める。そのうえで、真面目で真摯な態度で接することが、人類の発展に大いに貢献するものと思います。
おまけ 想像できるものは全てできる
もし、ピラミッドがテレポーテーションで作られていたらどうでしょう。私たちはその能力を忘れてしまっているだけかもしれません。人力で作るより、テレポーテーションで作ることを研究したほうがピラミッドを再現できると思いませんか?電話やテレビを作った現代人です。人間が想像できたものは、全て作れると思います。波動ルネサンス!
*氣功を体験したい方、くぅ庵では遠隔氣功を一回無料で行っています。どうぞご活用くださいませ。
参考文献
『信ずることと考えること』小林秀雄講演
『人は何のために「祈る」のか~生命の遺伝子はその声を聴いている~』
筑波大学名誉教授 村上和雄
京都府立医科大学教授 棚次正和