赤提灯の恋の街
「2か月前から入所費の支払いに来ていない」と老人保健施設の相談員から、オレンジチームに電話が入った。毎月決まった日に妻の入所費用を支払いに来ていた好生さんが、2か月前からあまり姿を見せなくなっている。時折来所しても、支払いはせず、汚れた服とボサボサの髪で妻の部屋まで行き、妻のベッドで勝手に寝転がっていたりする、という。
妻の艶子さんは足が悪く、車いす生活ではあるが、92歳とは思えない、しっかりとした姉さん女房。いつもきっちりと真っ赤な口紅を引いている。艶子さんも好生さんの様子が気になっていたようで、とりあえずはチームに話を聞いて欲しいとのこと。早速、まずは艶子さんを訪ねた。
老人保健施設のある場所は歓楽街のそばで、艶子さんはそこで長いこと飲み屋を営んでいた。10歳年下の好生さんは飲み屋の常連さんで、鐵工所勤めの帰りには毎日「ざるのように」お酒を飲んでいたという。酔うと決まってカウンターで眠りこけてしまう好生さんが「子供みたいに可愛くて……。」と、頬を少し赤らめて話す艶子さんの様子に、思わず笑みが漏れる。
この辺りは「恋の街」と有名な演歌で歌われている場所。二人はそこで恋に落ち、二人きりで肩寄せ合って暮らしてきた。「好生さんの家族は皆学校の先生だったから、飲み屋の女と結婚するなら縁切りすると言われた。そしたら二人きりで生きていこう、って好生さんが手ぇ握ってくれて。」
好生さんが今は一人で暮らす立派な戸建てを訪れた。玄関の扉は半開きになっており、玄関の奥にある部屋に男の人が頭を抱えて蹲っている。大声で呼びかけるとすぐに、どうぞ入って来てください、と明るい返事が返ってきた。
空の一升瓶の傍で好生さんが「階段から転げ落ちた」と笑っている。頭の切り傷から血が出ていて、ハロウィンの今日にぴったりな演出ですね、と私も笑った。すぐに応急処置をして、受診を促したが、どこも悪くないから絶対に行かない、と急に赤鬼の顔になった。
艶子さんが心配して、私たちチームに連絡をくれた、と訪問の経緯を説明すると、キョトンとした顔になり、「ボクは昨日艶子さんに会いに行ってない」と最近のことは何も覚えていない様子。そしておもむろに、「通帳がない」と箪笥の引き出しを全部ひっくり返し始めた。一緒に探すと、私のそばの棚にあったため、素知らぬ顔で「この辺りはどうですか」と注意を向けると、「見ぃつけた!」と好生さんは少年のような満面の笑みを浮かべた。
施設への支払いができていないことを伝えると、首を傾げて無防備に通帳を開いて見せてくれた。なるほど二か月前まではきちんと定額が決まった日に引き出されているが、以降の記載はない。かなりの残高額が見えた。通帳や印鑑など、大切なものを管理する場所を好生さん自身に決めて頂き、生活の様子や受診状況などを確認して、また来ますねと伝えると、傷の処置に対して「貴方のおかげで助かった。」と満面の笑顔で頷いた。
特に何の役にも立っていないのではあるが、看護師というだけで信用頂けるのはありがたい話である。その後も関わりを拒否されずに済んだのは、この時に手当てをしたからだったようである。
好生さんは通帳を頻繁に紛失し、せっかく引き出した現金もどこかへ仕舞い込んで、金銭管理が全くできなくなっていた。家の鍵も失くして、玄関は鍵がかからない。艶子さんの意向のもと、成年後見制度へ繋ぐ支援を地域包括支援センターと進めることとなった。
まずは認知症専門医への受診が必要だったが、例の如く「どこも悪くないから行かない」と好生さんはそっぽを向いて、朝からお酒を楽しんでいた。家の中は「ひっちゃかめっちゃか」になっていた。いつ泥棒が入っても、わからないような状態だった。
あらかじめ艶子さんには在宅での状況を伝えておき、病院受診の促しの協力をお願いしておいた。艶子さんは「私がそばに居れたら……。もうあの人は一人暮らしはできないですね。でももう私は一緒に住んでも、迷惑をかけるだけ……。」と涙を浮かべた。足を悪くした艶子さんの介護は、在宅でギリギリできるところまで、好生さんががんばった。艶子さんが疲弊する好生さんの姿を見兼ねて、自ら施設入所を希望した。
「ほんとは最期まで二人で一緒に居たかった。」
好生さんは艶子さんの前では、まるで少年のようだった。艶子さんのベッドに寝そべって、「ボクは一人でちゃんと暮らしてる」と少し威張った調子で言った。艶子さんは、私に目配せしてから「好生さんの身体が心配だから、こちらの看護婦さんと病院に行ってみてください、お願いだから……」と涙を浮かべた。
艶子さんの涙の効能は抜群だった。翌日には、認知症サポート医の脳外科医のもとに受診し、のちに成年後見制度と介護保険申請に繋ぐことができた。
好生さんは介護保険サービスを利用して、何とか在宅生活を整えて直しつつあったが、安全に独居生活を続けるには、物忘れが酷かった。また、ちょうど艶子さんは入所期限のある老人保健施設から、次の施設を探さなければいけない時期に来ていた。
お二人それぞれに、今後の住まいの意向を確認したところ、「またこの街で二人で暮らしたい」とはにかんで答えた。
そこで、施設紹介業者に相談したところ、この辺りでは珍しい夫婦部屋のある施設を紹介してくれた。
部屋からは馴染みのネオン街と赤提灯が見える。
二人は肩寄せ合って、微笑んで頷いた。
赤提灯の恋の街、艶っぽい演歌が聞こえてくる、そんなケースだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?