超鑑賞術「えんとつ町のプペル」は西野VS旧体制の戦いの映像化
えんとつ町のプペルをようやく観た。
思ったよりも見応えがあった。
ひとことで言うとこんな話
まだ見ぬ未来の芸人像を夢見る者(西野+クラファン・オンラインサロンメンバー)
VS
旧体制側の人たち(芸能村、芸人界、馬鹿な世間)
+
中立に見えて旧体制に取り込まれた西野さんの敵
で、西野の正しさが証明されて旧態依然とした芸能界に風穴があき西野軍が大勝利するドキュメンタリーだった。
〈ネタバレのないザックリあらすじ〉
えんとつだらけの煙に覆われた町でえんとつ掃除の仕事をする少年・ルビッチがゴミ人間と出会う。母子家庭で遊ぶ友達もおらず、みんなが楽しむハロウィンの日すらえんとつ掃除に勤しむルビッチ。
また、ハロウィンの仮装かと思いきや本当にゴミが集まって出来ている謎の生物、ゴミ人間は街の人間に恐れられ、異端審問官に追われる。逃げた先でひょんなことから出会う二人。ゴミ人間をプペルと名付け友達となったルビッチは「海のむこうにはまだ見ぬ世界があり、煙の向こうには星がある」という父親の言葉を信じ、それを見るのが自分の夢だと語る。
しかし煙に覆われたこの町しか知らない同世代の子供も、大人も、誰も信じていない。そんなことを言えば異端審問官に捕まる恐れもあるが、ルビッチはプペルと共に星を見るという夢に向かい町の歴史を揺るがす行動を起こす。そしてそんな彼らに突き動かされたえんとつ掃除の仲間たち、さらには町の人々までも、異端審問官たちに戦いを挑み、これまで無いと信じていた煙の向こう側を見ようと変わっていく…!
こんな感じか。
まあCMや事前情報で得られた予想を逸脱しないテーマをそのまんま映像にしたようなストーリー。
確かに話としては驚きもない凡作。映像美と世界観の設定はとても良かったが。しかしそれだけではもうこの無料で何でも手に入れられる時代、金を取れる水準には行かない。ただ「プペル」は1800円払って観ても後悔はしなかった。
その理由は「この作品の核」である西野の言いたいことをそのままぶつけている純度の高いエネルギーが見えた点。
何の前情報もなく観たが、これはひとことで言うと「西野の話」だった。
<設定分析 西野界隈の配役>
主人公、父親、鉱山泥棒など星を信じている人→西野
星の存在→ディズニーになる、芸人が前代未聞の様々な夢を持ち、それは叶えられるということ
煙→芸人界、もしくは芸能村、吉本、テレビ局が作り上げた支配体制
異端審問官→芸能界にドップリ浸かってる既得権益者。もしくは「芸人はひな壇に出て笑いとってりゃ良いんだよ!え!?ひな壇出ません!?何様だ!美術館作るとかテーマパーク作るとかふざけたこと言ってんじゃねー!」と西野を否定してきた人たち
同世代の子供→同期もしくは近い芸人仲間。一時は西野の活動を応援するも、古い体質の先輩芸人に「あんな奴とつるむな」と睨まれて西野と疎遠になっていった。もしくは陰ながら西野の夢を応援しているが決して表立っては言わない芸人仲間
えんとつ掃除の仲間→クラファン支援者、オンラインサロンメンバー
町の人々→最近の西野の活躍を知ってようやく認め始めた人たち
腐る通貨L→テレビ、ラジオ、舞台などの一回出て幾らのギャラ。もしくはレギュラー番組などでテレビに出続けていないと芸人としての価値が下がることの隠喩。
旬の時期にテレビに出続けないと売れない、生きていけないというメディア側に主導権のある生き方ではなく、西野は自力でしかもマイペースに好きなように金を稼ぐ方法を見つけ、金やメディアによる支配から抜け出した側に行けた=通貨Lの廃止
これは、芸人のくせにディズニーを超えると豪語し、テレビにも出ず、アート活動ばかりしていた西野が、古い体質の芸能村から異端だなんだと批判されながらもその夢を諦めず叶えるまでの物語。
西野の代弁をしているキャラが何人かに分かれているが、みな「煙の向こうに星がある」と信じている人たち。
煙(旧態依然とした芸人の世界)の先にまだ見ぬ未来(これは西野しか見えていない)があるし、それは金のためじゃなく、自分がドキドキしたいから、そのために俺はテレビに出ることを辞めたんだ、という話。
クライマックス直前で鉱山泥棒が「金のためじゃなく、自分がドキドキしたいからだ」と、まんまストレートに言っていた。
煙で覆い隠した外の世界を見せないことで人々(芸人)を洗脳しコントロールする芸能界から飛び出すため、夢を叶える仲間は芸人でなく、クラファンやオンラインメンバー。真っ先にルビッチに協力して旧体制である異端審問官と戦う。
エンディングに見る西野が救いたい人、西野に救われた人々
えんとつ掃除人、つまりクラファン支援者やサロンメンバーにこそ西野は感謝してるし、信頼してるし、今後見せる西野の世界において一番の恩恵を与える気でいる。後乗りで西野の正しさに気づき、認めた程度では次の新世界への旅路には置いて行かれる。
それはエンディングムービーが、何かの設計図がだんだんと船のカタチになり、巨大な船が外の世界へと出航した時に乗っているのが「えんとつ掃除人しかいない」というところによく現れていて笑った。
もしかすると船内に町人たちがいたかもしれないが、他の乗組員たちは船を漕いだり料理をしたり西野の役に立つならまあ乗る権利くらいはあげるかもね、でも船の先頭で夢の続きをみる権利があるのはこいつらだけさ、ということ。この選民意識バリバリのエンディングはこれまで金払って支えてきたサロンメンバーも誇り高い気持ちで観れただろう。
何者かになりたいが、自力じゃなれないからその夢を叶える手段としてオンラインサロンに入った自分たちは、ついには「選ばれし一握りの者」になれたのだから。
後乗りで西野を担いで盛り上がった町の人たちは星は見せてあげたが、船には乗せない。船に乗る権利があるのは真の支援者たるオンラインサロンメンバーであり、町の人たちは西野が夢を叶えていく姿だけ見せてやるが、もっとも美味しい部分は真の仲間にならないと見せない。
エンディングで挿入歌のタイトルが明らかになったが「ドリーマー」「夢の礫」「メザメ」と、まんま西野が10年前から見ていた未来にようやく愚民が気付き理解出来て行く映画ですよという構成だ。
ふと思ったが、異端審問官の下っ端が「ムシャムシャフガフガ」と言葉にならない言葉を発しながら命令に従い異端者を追いかけるのは、実は権力側に就いて西野を追い詰めていたテレビ界や芸人仲間たちも、現場レベルの奴らは会社上層部や先輩(既得権益)が言うからそれに従ってただけでだと西野もわかってたよ、というメッセージだろうか。俺を批難してきたみんな、わかってるよ、それは本人の意思ではない、西野のやってることの良し悪しを自分で考えて批判してたんじゃなく、みんなそこまでも賢くない哀れな人たちであるから気にしてないよ、という表現だろうか。
西野さんを知らなくても、むしろ純粋に作品として観て最高!みたいな意見もあるが、俺としては映画としてはもう一度観たいレベルではないし、西野という元ネタを知らないとまるで面白くない作品。
世界観と映像だけはよく出来ていた。パーティー会場にあの映像でセリフなし音なしにして何かのBGMを付けてプロジェクターでずっと流していたら、良い感じの雰囲気作りに貢献してくれそう。しかし真面目にしっかり観るものではない。
ただ、作者の言いたいこと、こだわり、信念、人生観みたいなのが乗ってる作品はそれだけでパワーがあり、まあ映画館で金出して観て後悔はない程度には満足出来た。
なんと映画館はほぼ満席。
観終わったあと後ろにいた中学生3人組とトイレで一緒になったのでどんな感想を述べてるか耳をすませていたら「やっぱ昼にマックのあとチョコパイ食べたのはツライわー」と、昼飯が重かったという話に終始していて誰も映画について語っていない。そんなもんなのか。
単なるイチ映画として言いたいこと編はまた別の記事に。