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当たり前が当たり前じゃなくなるという当たり前。

感染者数が5千を遥かに超えるともう、体調不良が強いとかメンタル不調が強いとか、そんなことをいってる場合じゃない。コロナしか勝たん。

ということで、今日もずっと家で本を読んでいた。
夕方ぐらいにポストに本が届いたのでちょっと外に出たぐらい。

上2冊が届いた本。
下2冊は今日読んでた本。

ちょっとポストまで本を取りに行くのにも、部屋着で出るのは躊躇する。
上はパーカーだからまだしも、下はいかにも部屋着なもこもこズボンという出立ち。
下をジーパンに着替えればいいんだけども、それすら面倒くさい。人に出くわすかどうかわかんないし、その可能性は低い。だけども低くても出くわす可能性はあるぞ。部屋着からジーパンに着替えて、本取りに行って部屋に戻ってきて、また部屋着に着替えるのか。めんどい。美人だったら部屋着でも様になるのに。むしろそれがいつもとは違ったギャップで素敵なのに。美人なら部屋着が許されるってなんだルッキズムか。ルッキズムに従うのは嫌だ。対抗するためにも部屋着で取りに行こう。

ちょっと下まで行ってポストに本を取りに行くのにも、自分を諌めたり擁護したり、忙しい。めんどうくさい。
でもこうして自分と話すのは嫌いじゃない。
むしろ自分との会話と同じくらい会話が楽しめる他人はめったにいない。


今日読んだ本。

今できることは、曾孫といっしょに生きることだけだった。そのためにはしなやかな頭と身体が必要だ。これまで百年以上も正しいと信じていたことをも疑えるような勇気を持たなければならない。誇りなんてジャケットのように軽く脱ぎ捨てて、薄着にならなければならない。寒さに襲われたら、新しいジャケットを買うことを考えるのではなく、熊のように全身にみっちり毛が生えてくるようにするにはどうすればいいのか考えたほうがいい。実は自分は「老人」ではなく、百歳の境界線を越えた時点から歩き始めた新人類なのだと思って義郎はなんども拳骨を握りなおした。
『献灯使』多和田葉子

ディストピアと聞くと『1984』とか『華氏451度』のような大仰で派手な海外文学を思い浮かべてしまうけど、この作品は派手さがなくて地味で当たり前が当たり前じゃなくなるという当たり前を淡々と書いている感じがした。

この作品で書かれている、老人は健康で強靭だけど、幼く子供は身体が弱く歩くこともままならなくて、高齢者が幼い子供を介護している社会、老人はますます長生きして子供は早死にしてしまう世界は確かにディストピアだ。
でも淡々としているのでそうしたディストピアはいかにも実現しそうで、今現在の延長にある未来のように思えて怖かった。

当たり前だったことが当たり前じゃなくなる、なんてことは最早当たり前に起こることだ。
でもこれは私の年の功というべきもののせいなのか。
それなりに長く生きてきて、テレビのニュースを通して大災害や無差別殺人や国際的なテロなどである日突然日常が失われる人々を見てきたし、それに比べたら小規模だけど、私自身2年ちょっと前までは当たり前だった生活を失っている。
これは私が激動の時代を生きてきた証なんだろうか。
でも当たり前なんてきっといつかは失われるものだし、時代はいつだって激動だ。

だから何度も当たり前を塗り替えてきたであろう義郎と、義郎からすればディストピアの生活を、生まれ持った生活で当たり前だと思ってるひ孫の無名の対比が際立っていて、曾孫の成長を願う義郎の真摯で真っ直ぐな願いが胸を突いた。

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