尖った部分があれば使おう
尖った表現は驚きを与えてくれる。受け手として、ひとしきりその新奇性に感心したのち、振り返って自分の凡庸さが恨めしい。自分にもそんな尖った感じの物が作れないだろうか。しかし、とってつけた尖りの表現ほど、見苦しいものはないのだ。ない知恵を絞って考えてみたそれは、いわゆる「中二病」罹患者の放つやたら長い横文字の技のようなもの。憧れで作られた模倣品。不安定な基底の上に無理やり組み立てた積木の城。ちょっとつつけば、がらがらと崩れる。
と、ここまでの文章にもう、頑張って書いてみた感がにじみ出ている。書き慣れていないものを書いてみてもすぐにわかる。自分にないものはうまく表現できないのだ。ところで中二病といえば、それくらいの時期に創作をしていると、ハイスペックここに極まれりといったキャラクターを作りがちである。頭脳明晰、眉目秀麗、才色兼備などなど。しかし、それを作った本人の多くがハイスペックではないのだから、自分にはない要素を持ったキャラクターはうまく動かせないまま、黒歴史となっていくのだ。うっ、頭が……。
それはさておき。自分が持っていないならばその表現はうまくできない、をひっくり返して、表現ができるのならばその要素を持っている、と逆に取ることもできると思っている。つまり、尖った表現ができる人には何か尖った部分があるのではないかと私は思っている。
尖った部分は何かから身を守るために必要だから生まれたのかもしれない。尖った部分はちょっとあるだけで、あとは平らなのかもしれない。別に欲しいとは思っていなかったかもしれない。いらないと思ったこともあるかもしれない。でもあるのだから、自分の役に立てる方向で利用したらいいと思うのだ。先に挙げたように表現に使うとか。その尖りに憧れ、欲しいと思う者もいるのだ。だから大事にしろと言うつもりはないし、何でも「個性」の単語にまとめてしまうのは乱暴だとは思う。でも、その尖った部分はまさに武器で、持っている人を助けてくれることがあるのではないか。
ない人は、尖ってないことを利用するのみである。平らにやっていくしかない。平らであることも何かの役に立つことを願いつつ。