私たちの生きる社会はエルサレムに似ている──【書評】ゴンサロ・M・タヴァレス『エルサレム』
タイトルは、「エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい」という旧約聖書の言葉からの引用である。この文脈で、エルサレムは神と同義であり、エルサレム=神を忘れてしまうならば自分はもう何もできないという、その「エルサレム」がタイトルになっている。
物語の舞台は、一昔前の、ドイツ語圏を思わせる都市である。五月二十九日の夜明け前、病に犯されたミリアは体の痛みを感じながら、教会を目指す。しかし、教会は開いていない。病の痛み、つまり自分を殺す「悪い痛み」よりも、空腹による腹痛、つまり生きるための「良い痛み」が優っていることを喜びつつ、痛みに耐えかねてかつての恋人エルンストに電話をする。エルンストはその時、自殺を企てているが、ミリアのもとへ走り出す。その頃、ミリアの元夫で精神科医のテオドールは娼婦を求めて街を歩き、また同じ頃、少年は父を探して街を歩く。さらに獲物を探す帰還兵も、同じ時刻、同じ街を歩いている。
この時間の出来事を軸に、物語は彼らの過去との間を往復し、精神科医ゴンペルツが運営するローゼンベルグ精神病院での倫理と秩序を重視した登場人物の暮らしや、テオドールの膨大なデータを基にした恐怖と人間社会に関する研究成果を明らかにしていく。
不気味で猥雑な、狂気をはらむ登場人物たちの厚みのある描写や、彼らの関係性を解き明かす展開は緊迫感があり、テオドールの名が「神の贈り物」を、エルンストの名が「正直で信頼できる者」を意味するなどといった文化的背景を共有していなくても、旧約聖書の解釈を知らなくても、筋を追うだけで読む喜びは十分に感じられる。
しかし、──ここからは、私の解釈だ──対立する二人の精神科医の名前が、『自由論』で有名なジョン・スチュワート・ミルの全著作をドイツ語に訳した哲学者テオドール・ゴンペルツから取られているのではないかと考えると、またテオドール・ゴンペルツは『自由論』を訳す際に、その核心をなす「人間の多様な発展の重要性」を印象付ける部分を、あえて「力と教育」を強調した形で歪めて訳したらしいことを考え合わせると、この作品の軸として考えるべきは、テオドールが象徴する「神」とゴンペルツが象徴する「倫理と秩序」の関係や、ナチスなどの強制収容所などの調査をもとにしたテオドールの恐怖と人間社会の研究内容ではないかと思えてくる。
そう読むと、ここに描かれている社会や狂気は急に普遍性・現代性を帯びてきて、この作品がジョゼ・サラマーゴ文学賞、ポルトガル・テレコム文学賞ほかを受賞し、世界50か国で翻訳されていることや、作者のゴンサロ・M・タヴァレスがいずれノーベル文学賞を獲得するとサラマーゴに言わしめた理由が伝わってくる。
東日本大震災後の原発事故や新型コロナウイルスのワクチン、もしくは移民に関する議論などさまざまな事柄で、私たちは科学やデータをベースにどんなに言葉で議論を進めても、一つの正解には辿り着けない現実を実感している。ひとたび何かを「悪」と感じて同意見の人たちの「箱」に入れば、私たちはそれを「悪」と思い込み、叩ける状況にあるなら正義感や道徳心をもってそれを攻撃する。
この状況は、すでに私たちが「食べなければ死んでしまう」といった明らかな正解だけでは選択できない世界に生きているからこそ起こることであり、その決断に至る心境や行動は、さながら「宗教」のようだ。しかし、その正義や道徳は状況次第で簡単に変わる。それでも「改宗」は可能だ。新しい「箱」に入り、過去に入っていた「箱」を忘れさえすればいい。そんな現実を、タヴァレスは描き出しているようである。
エルサレム。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という三大宗教の聖地であり、訪れた人の多くが「エルサレム症候群」と呼ばれる宗教的ヒステリーに陥るという都市。私たちはみな、エルサレムに住んでいる。
参考:馬場昭夫「John Stuart mill "On Liberty" のドイツ語訳について」 暁星論叢 Vol.39,PP19-23 1996年
(1593文字 想定媒体=文藝)
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先日、書評講座に参加しました。上記はそこで提出した課題を手直ししたものです。
https://kyokonitta.com/2021/12/08/bookreview1/
講師は書評家の豊崎由美さん。3冊の課題書(『エルサレム』、ウォルター・テヴィス『クィーンズ・ギャンビット』、キム・オンス『キャビネット』)から1冊を選び、800字〜1600字で想定媒体を決めて書評を書くか、訳者になったつもりで解説を3200字までで書くというのが課題でした。
正直、私は『エルサレム』を読んで、「なんかしゅごい……」と思ったけれど、何がすごいか、どうすごさを書いてよいかさっぱりわからなかったし、あんまり時間も取れなかったので、困ってアクロバティック論法を繰り出しました。そしたら、意外にも褒めていただいちゃった。豊崎さんには「段落をもう少し細かく分ける&最後の書き方を工夫する」点をご指摘いただきました。noteでの公開なので、修正の際、段落は紙に印刷する場合よりも多めにしました。
私は別にJ・S・ミルに詳しいわけでもないので、上記は穴だらけだろうと思います。ただ、ヨーロッパの多くの国の高校課程で哲学が必須科目で、こういった本を読む層はきっと誰かの思想を思い起こしながら読むだろうと思うと、それに少し触れたかったのです。
講座で別の受講者の方が、タヴァレスはアンナ・ハーレントの影響を受けていると教えてくださり、もしかしたらちょっと近いところにはいけたのかもな、と思いました。
J・S・ミルとアーレントは思想上の深い一致点、類似点があるそうです(千葉眞「ハンナ・アーレントの生涯と思想」より)。そしてアーレントは少なくとも最初はドイツ語でJ・S・ミルの思想を読んだのではないかな。
ハンナ・アーレントは『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』という書籍を出しています。これを読めばもっとタヴァレス『エルサレム』が深く味わえるのかな、とも思います。内容もけっこう重なるところがありそう。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/978462208628
ポルトガルの小説家であるタヴァレスが、ドイツらしき場所を舞台にした作品を描き、さらにタイトルを「エルサレム」にするって、そこにはなんらかの意図があるし、それを書評に入れる必要はあるんじゃないかなーと思ったのでした。自分が、付加情報のある書評が好きだということもある。書評を読んで興味を持ち、本を読んでもう一回書評を読むと二度おいしい、みたいな感じの書評が好き。好きすぎる本だと、読後に書評を読み返して「えー、違うし!!」と思うこともある。それもまた楽しい。二人で読書会をしている感じで。ということで、ぜひ『エルサレム』を読んで、私の誤読をご確認ください。
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書評講座は20人弱の参加者がそれぞれ書いた書評を読み、お互いに採点してのぞむというもので、皆さんの読みに本当に目を開かれる思いでした。私は文芸誌を想定媒体にしたから上記のような内容にしたけれど、ストーリーラインだけ追っても十分に強い作品のため、想定媒体と書評内容のバランスにうならされることが多かったです。他の本について書いた書評を読むのも楽しく、けっきょく3冊買いました。
豊崎さんのYouTube「文学賞メッタ切り」を楽しんでいるので、講座では豊崎さんにミンチにされちゃうのではないかと震えていたけれど、全員に愛をもって指導してくださいました。感激。豊崎さんの書評にかける情熱とプロ意識も感じられ、大変刺激的でした。
オーガナイザーをしてくださった新田さんはカナダ在住。姪御さんとこんなすてきな本を出されています。別のところでこの『赤毛のアン』で有名なモンゴメリの短編集を知って、すてきだなと思っていたので、これを作ったのが新田さんだと知った時には興奮しました。
https://kivisoap.stores.jp/items/618c60cb1bfe1924973837bb
世界各地から参加する会で、アフタートークで諸外国の翻訳&出版事情や本の受容の話を聞けたのも楽しかった。6時間もの白熱した会だったので、アフタートークの頃には朦朧としていて、参加者のお一人が「モンペリエに1年住んでいたんですよ」と教えてくれたのに、エネルギー切れで薄い反応しかできなかったのが心残り……ごめんなさい。
第2回もまた参加したいです。書評の仕事の依頼が来たらいいなー!