44年間で一番苦しかった「待つこと」について。
わたしは「待つこと」が得意で、唯一の長所だと思っていた。だけど、娘が学校に行けなくなったときに「待つこと」の苦しみを知った。
ある日のこと。娘は中学校の門まで辿り着くと、吐き気がして疼まってしまったのだ。
教育支援センターで受けたアドバイスは、「登校できる日まで様子をみましょう」だった。登校させずに見守る日々が続く。
焦りが出たころ、担任の先生から提案される。「保健室登校から再開してみましょう」と。
娘は授業には出られないけれど、保健室登校はできていた。4ヶ月が経ったころ、突然、担任の先生と連絡が取れなくなる。うつ病により休職していると知った。
それをきっかけに、娘は保健室登校をやめて、完全な不登校となる。わたしは、どうしたらいいのかわからず途方に暮れた。夫は遠方に住んでいるため、相談もできない。
わたしが、なんとかするしかない。そんなふうに思うけど、結局は登校できない毎日が続く。
あるとき、職場で中学生の職場体験指導係になった。明るい顔で楽しそうに学ぶ子どもたち。わたしの声も弾む。
そのとき頭の中に過ったのは、
娘は真面目な性格だった。きちんと予習復習をし、提出物をだし、友達もいる。油断していたのかもしれない。
仕事から帰宅すると、泣きながら夫に電話をかける。職場で元気な子どもたちと接することが辛かった。
子どもたちは何も悪くないのに。
退職すると、不登校児童を抱える親のための講習会、講演会に参加をした。どうしたら娘が登校できるか、NPOの人にも相談しにいった。
それでも、
「待つこと」が苦しい。学校に行けないでいる、辛そうにしている娘を見るのが苦しい。でも、娘は わたし以上に苦しんでいた。
その決断を下すまで、半年以上が経っていた。
諦めると、肩の力をが抜けたのだろう。あるとき、ふと中学校が合わないなら、環境を変えればいい。場所をズラせば良いのではないかと思った。
現在、娘は遠方の適応指導教室へ通っている。公認心理士さんとの定期面談を重ねるうちに、徐々に心も安定してきた。
ずっと娘の未来のことを考えていた10ヶ月間。娘の人生があかるくなることを願い続けていた日々。
物事を一方でしか見れなかった自分に気づいたとき、
「待つこと」の苦しみから解放された。