ゴッホのひまわりがわからない
その絵を見たのは人生で2回。
1度目は5年前、イギリスのナショナルギャラリーで。2度目は1年前、日本のナショナルギャラリー展で。
この世に7枚存在したというゴッホのひまわりだが、私が見たのはどちらも同じひまわり。どちらも一際人だかりができていた。
皆、口を揃えて言う。素晴らしい。感動した。なんて情熱的。感化された。多くの人を魅了する彼の絵画。
私は、ゴッホのひまわりがわからない。
決してその絵を非難したいわけではないことを、先に記しておこう。あんな絵のどこがいいんだとか、そんなことが言いたいわけではない。
美術館巡りが好きな私は、度々ゴッホの絵を見ることがあった。ゴッホ展にも足を運んだ。絵単体を見て感銘を受けるほど感性豊かでない私は、絵の背景や画家の人となりを知るのが好きだった。
正直、ゴッホの絵はそこまで好きではなかった。わかりやすい線が入った絵よりも、ルノワールやモネのような柔らかい印象の絵画が好きだった。
普段は現代アートを好む友人が、ゴッホの絵は好きだと言った。
「友人と喧嘩して耳を切り落とすなんて、すごい人間味を感じてさ」
私も同じエピソードを聞いた。狂気だと思った。耳を切り落とすことが人間味だなんて、たまったもんじゃないと思った。
写実主義のようなリアリティでもなく、印象派のような柔らかさでもなく、感情移入するには振り切り過ぎている彼の絵が、どうしてもわからなかった。
どうしてひまわりだったんだろうと考えたことがある。何かに取りつかれたように描いた花。私だったら、何を描いただろうか。
黄色い花だったら、ひまわりよりもモッコウバラやミモザの方が好き。菜の花でもいい。黄色から金木犀も連想されるけど、香りでいうと蝋梅や沈丁花も好きだ。昔は子どもっぽい花と思ってたチューリップが、今はどの花よりも可憐に見える。雨の日の紫陽花も素敵だし、雪が少し積もった椿も綺麗だろうなあ。蕾の桜から、開花、桜吹雪、葉桜までを描けたらどんなにいいだろう。
そんなふうに考えると、きっと彼にとってひまわりは、何か特別な意味をもたらす花だったんだろう。
黄色い太陽の光と似ているように感じたのかもしれない。敢えて綺麗なひまわりだけを選ばなかったのは、そこに生命を感じたからかもしれない。ひまわりを描くことによって、ひまわり以外の何かを描きたかったのかもしれない。
私は一時期、木々の新芽や枯れ葉がすごく愛おしく感じて、ひたすら写真を撮っていた時期がある。多分他の人が見ても、よくわからない緑があるだけに見えるだろう。
私が草木や花々に惹かれるように、きっとゴッホも彼にしかわからない魅力があったのだ。だったら私がわからないのも無理ないよね。
そう考えると少し親近感が湧いた気がした。
直近のゴッホ展では、ひまわりではなく糸杉が目玉だった。生前、彼は言ったそうだ。
ハッとした。
どうして線が残る絵を描くのか。もともと「王道」の絵が描けるのに、どうしてそんなタッチで描くのか。
彼が描く自然が、生きているように感じた。糸杉のうねりが、病院の庭の草木が、葡萄畑の枝のしなりが、不器用に、懸命に、力強く生きているように感じた。彼は、この世界をそう見たんだ。
直近のゴッホ展は素晴らしかった。展示の流れも、贅沢に取り揃えた絵画のチョイスも、ほとんどの絵の横についていた解説も、丁寧な音声ガイドも、グッズの品揃えも。久しぶりに余韻が残る展示会だった。
あの空間にいることが幸せだと感じた。それくらい、彼の描く自然に包まれていたい、いや、共に生きたいと思った。
私は、解説がなければそのことに気づけなかった。やっぱりそこまで感性が豊かでないのか、表面上でしか見れないのか、それとも単にゴッホの絵と相性が良くないのかもしれない。
彼の糸杉は好きだ。彼の描く草木も自然も、見方が大きく変わった。
それでも、やっぱり、ゴッホのひまわりがわからない。あの花瓶に入ったひまわりがわからない。あの黄色がわからない。
でも、わからないから、きっとまた足を運ぶんだと思う。私もまた彼の魅力に惹きつけられている一人なのかもしれない。
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