春に溺れて
「駅前の定食屋さん、今日で閉店らしいですよ」
その地を離れて半年ほど経った金曜日の夜、友人から連絡があった。行きつけのひとつだった定食屋だ。古びた小さいビルの2階にあって、1階はラーメン屋やタピオカ屋などコロコロと店構えを変えていたが、その定食屋だけは常に満席だった。
頼むのは大体唐揚げ定食で、甘辛いタレを絡めた味付けはどこの唐揚げよりも美味しかった。300円のお釣りを、300万円と言って返してくれるおばあちゃんはいつも忙しそうだった。
その定食屋屋さんが、閉店した。最終日は1時間半待ちの行列ができたそうだ。もう、あの唐揚げ定食を食べる術はない。
久しぶりに訪れたその地は、何も変わっていないようで、少しずついろんなものが変わっていた。
ほとんど使われていなかった歩道橋が撤去された。地道に耕した花壇には、植物が溢れていた。溜まり場だった彼の家はもう私たちの居場所ではなくなっていたし、無論私が住んでたアパートも入ることはできない。
気づかないうちにいろんなものが姿を変えて、なくなって、何か新しいものができていく。
少しずつ、自分が触れていたものが、違う誰かのものになっていく。
きっと春のせいだ。
出会いと別れの季節は、いつも気持ちが切なくなる。学年が一つ上がって、先輩たちが卒業して、後輩が入ってくる。
そういったイベントは、今年の私にはない。
あの切なさと新鮮さは、今年の私にはない。
年度末の追い込み。大きな異動は夏だから関係がない。寂しくなることもなければ、年度が変わるだけの月の変わり目。
春が、ゆるりと過ぎていく。
去年まで、桜は私たちのものだった。
綺麗に咲き誇って、散っていく様ですら、私たちのものだった。私たちの桜だった。
今年の桜は、彼らのものだ。その地を去る彼らのものだ。それを惜しむ彼らのものだ。新しい地へ向かう彼らのものだ。
今年の桜は、私のものではなかった。
特別な意味を持つ桜が、ただの薄紅色になっていくのを、何も抵抗せずに見過ごしたくなかった。
一度経験した気持ちを掘り返して、手に取って、必要以上に切なくなろうとする。それが重しになって少しずつゆっくりと身体が沈んでいく。
自らもがいて、余計に溺れていく。淡い薄紅色に溺れていく。もがくほどに、ゆっくりゆっくり沈んでいく。そして、花びらと一緒に散っていく。
この先何十年と生きていくであろう中で、春という季節が少しずつ特別感を失っていく。
薄紅色の花びらに、淡いやわらかな空に、暖かくなっていく日差しに、自ら溺れようとして、掬い取ろうとした花びらは指をすり抜けて舞い落ちていった。
そういえば、1年前に書いたホワイトボードの文字が、消えかけながらも残っていた。いろんなものが変わっていく中で、書き直せば良いものを、そこだけがそのままの状態で残っていた。
変わっていくもの、変わらないもの、いろいろあるけれど、変わらないために変えなければならないものもあると、何かの小説で読んだ気がする。
桜が散るなんて儚いことを言っていたら、この地の桜は萼ごとぼとぼと落ちていくらしい。思い切りが良すぎて笑ってしまった。
ああ、1年が終わるね。
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